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アンハッピーカタルシス



 彼は気難しいからと寿退社をする前任者が事細かなマニュアルを残してくれていた。といってもコーヒーはこの銘柄でないと飲めないとか、酒はあまり飲みすぎないように注意することとか、そういったものだ。生来がさつなわたしにマネージャーが務まるのだろうかと悩んだものの、後任にわたしを指名したのは他ならぬダンデさんだと聞いて引き受けるしかなくなった。お給料も多少は上がるし。
「よろしくお願いします」
 と深々とお辞儀をして、顔を上げたときのダンデさんの表情が忘れられない。目を細めて、口の端を綻ばせていた。いまなら分かる。あれは悦びに満ち溢れた、多幸感でいっぱいの表情だ。
 業務は至極単純、ルーティンを終わらせ、あとは彼に頼まれる細々したことをこなせばいいだけ。常識的なひとだから業務時間外にむちゃくちゃを頼まれることなんてない。キバナさんのマネージャーは真夜中に呼び出されることもあって大変だと聞いている。それに比べれば、いまのわたしの状況なんて、きっと幸せで――
「っは、ァ、余計なことを考えているな……っ、オレを見てくれ、っ」
 背中には壁、目の前には視界いっぱいにダンデさんの身体。身体を丸めたダンデさんが顔をキスしないギリギリまで近づけてきて、熱い息が頬を撫でる。逃げたいのに脚が竦んで動けない。たぶんわたしは涙目になっている。唇を噛み締めてなんとか彼の目を見つめたら、息遣いが一層荒くなった。
「それで、……っ、どこまで、話したかな、」
「わ、わかりません、」
 わたしの吐息も彼の顔にかかり、耳の横に置かれた左手が大きく震えた。
「じゃあ、もう一度最初から話すぞ……っ、う、く」
 必死に目を逸らしているのに、視界の端にどうしても上下に動く右手がちらつく。それが握っているものも。男性経験がないわけではない。ただそれでも、いまの状況はかなり狂ったものだった。
 彼は冷静さを欠いた口ぶりで、わたしをどんな風に凌辱する妄想で自らを慰めたかを語り始めた。一昨日は満員電車で偶然身体に触れてしまって、そこからエスカレートして行為に及ぶというものだった。昨夜は、どうやら嫌がるわたしを無理やり組み敷いて好きなだけ腰を振ったらしい。わたしは泣きじゃくったけれど、最後にはダンデさんを受け入れたそうだ。
「き、きみが、あんなにいやらしいことを言うなんて、っお、お……っ!」
 この業務に就いてからの一週間、毎日のように彼の自慰の報告を聞かされている。もちろんわたしは彼が妄想している言葉なんてひとつも言っていない。業務上の会話しかしていないのに、なぜそんな目で見られるかも分からないくらいだ。
「すこし、すこしでいいからっ、触ってくれ……っ」
 ダンデさんが腰を突き出す。お腹の辺りに猛ったものが当たりそうになって身を縮めた。カウパーがとめどなく迸り、床に小さな水たまりを作っている。雄のにおいが充満していて、とても嫌だった。そんなつもりは毛頭ないと示すために胸の前で両手をぎゅっと握りしめる。けれどそんな反応も彼には刺激になったのか、それを扱く動きが激しくなった。ごしごしと、乱暴に過ぎるのではないかと思われるほどに。
 こんなことをされるためにわたしはここにいるのか、どうしてこんなものを見させられているのか、彼がなんのために毎日これをするのか。烏滸がましい考え方だけれど、わたしが好きならそれなりの態度をとればよいのではないかと思う。例えばデートに誘ったり、贈り物をしたり。
「ぁ、あ、出る……ッ! う、ぐぅ……っ!」
「ひッ」
 びゅく、と白濁色の体液が彼の指の隙間から飛び出し、少し跳ねて黒いスカートに染みを作る。大部分は指を伝い、カウパーの上に落ちていった。咽せ返る青臭い、獣のにおい。犬のように舌をだらりと出したダンデさんの額には汗が浮いていた。顔を逸らしてなにもかもを視界に入れないようにする。ただ荒々しい呼吸音だけが鼓膜を掠めた。
「ダンデさ、」
 とりあえず仕事に戻ってもらおうと名前を呼びかけたら、琥珀色の瞳がぎらぎらといやに輝いた。ああ、間違えた。性的にみている人間に名前を呼ばれて、彼が喜ばないはずがないんだ。再び屹立し始めたものを汚れた右手がまた握り、緩く動き始める。
「……もう一度呼んでくれ、ないか」
 唇を噛み締める。この後どうすればいいかなんてマニュアルには書いてない。誰も正解を教えてくれない気の触れたこの行為に、わたしはいつか慣れてしまうのだろうか。それとも、実際にダンデさんがわたしを犯してしまうのが先だろうか。どちらもあまり喜ばしいことではないだろう――やはりわたしは、不幸なのかもしれない。

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