朝。鬱陶しい朝。どんなに拒んでもきてしまう、次の陽射し。 「おはよう、ネズさん」 がしがしと髪をかきむしる。「おはようございます」「もう10時半だよ、お寝坊さんだね」「ああ、はい」うまく舌が回らない。寝起きの頭でぼんやりと今日の日付を確認しようとして、すぐに出てこなかったので考えるのをやめた。スマホを見る。しまった、今日は妹が来る日だ。こんなだらしない様でいるとまた説教を食らってしまう。マリィは誰に似たのか――間違いなくおれに似たのだが、世話焼きで困る。二週間に一度はうちに来て部屋の掃除をしたり料理を作り置きしたり、とにかくよく働く。おれから頼んだ覚えはないのに。 「マリィちゃん何時に来るかな?」 「昼過ぎでしょうね、シャワー浴びてきます」 「うん、いってらっしゃい」 そもそもこの可愛い恋人とふたりでいるのだから、おれから頼む道理はない。料理も掃除も得意とはいえない不器用な恋人だけれど。 エナジードリンクの缶を蹴っ飛ばしてバスルームに向かう。恋人が後ろでベッドに寝そべる気配がした。 頭痛。言いようのない倦怠感。朝も昼も、これがあるから嫌いだ。夜が好きだ。真っ暗になってからでないと、動きにくい気がする。 頭を空っぽにしてシャワーを浴びていると、玄関のチャイムが鳴った。「マリィちゃん来たよ!」慌ててタオルで雑に全身拭き、その辺にあったTシャツとジャージを着て飛び出す。前髪から滴る水が廊下にぽたぽたと足跡のように連なった。 「……なに、その格好」 予想通りの呆れた表情。 「さっき起きてシャワー浴びてたところです」 「シャツが前後ろになっとる」 「……急いでたんですよ」 恋人が気まずそうに「マリィちゃんこんにちは」と小声で挨拶した。マリィはふんとまた呆れたみたいに鼻を鳴らして「これ、みんなから」と白い百合が目立つ大きな花籠を渡してきた。 「なんですかこれ」 メッセージカードがついている。ダンデを筆頭に、ジムリーダーたちが連名で送ってくれたらしい。心当たりがなかった。カードをその場で読むのも変なのでとりあえず受け取って靴箱の上に置く。 「入っていい?」 「あー……散らかってますけど」 「いい、マリィが片付ける」 ブーツを乱暴に脱ぎ、有無を言わせず部屋に上がる。恋人があわあわとしているのが面白かった。前後ろになっているシャツを着直してマリィの背中を追う。小さい背中だった。 汚いなあ、と小さい独り言を聞き逃しはしなかった。反論もしなかった。実際、床にはカラフルな缶が散らかっており、流しには皿が山積みになっている。薬の包装シートもあちこちに散らばっていて、ひと目で不健康な生活をしていることが分かる。我ながら、ひどい部屋だ。 「ご飯は食べとるみたいやね」 「まあ、腹は減るんで」 「病院は?」 「行ってます」 「わたしがちゃんとついてってるよ」 「エナドリの飲み過ぎはよくないって、こないだ雑誌で読んだよ」 「そうだよね、わたしも注意してるんだけど……」 大きな音を立ててカーテンが開かれる。「まぶし、」おれと恋人の呻き声が重なった。 「アニキ、」 「眩しいです、閉めてください」 「ちゃんとこっち見て」 手を翳して日光を避け、マリィの目を捉える。陽の光を背負った妹は、なんだか神の使いのように見えた。正しいことしか言わない、絶対を伝令する、いまから喇叭を吹き鳴らす天使のような。 「……そろそろあの子のお墓参り、行かんと」 「……なんのことですか」 思わずよろけて、また缶に踵をぶつける。 「お葬式も出れんかったんやけん……お墓参りはちゃんとしよう」 「なん、の」 「もう起きてよ、あの子は、」 あの子、 「アニキの彼女さん、は」 「そこにいるじゃないですか、ほら」 右後ろを指さす。困ったように笑う恋人が、そこに、いなかった。 「あ、」 百合の花、薬、月一のカウンセリング、ガソリン代わりのエナジードリンク、泣きそうな妹の顔。 あの日のすべてがフラッシュバックしてその場に崩れ落ちる。あの日、夜中、薬を飲んだ。恋人とふたりで掌いっぱいの睡眠薬を飲んだ。吐きそうになっても飲み続けた。胃が熱くなっても飲み下した。酒の力で恐怖をかき消した。最後に見た恋人の表情は、泣き笑いの笑顔だった。 おれは半狂乱でシーツを剥がしたりテーブルをひっくり返したり棚を倒したりした。どこかにいる、いるはずだ、だってさっきまでおれには見えていた。会話もした。ベッドに寝転んでいた。慟哭。泣き叫んで頭を掻きむしる。濡れた髪が頬に張り付いて不愉快だった。 葬式に出られなかったのは入院していたせいだ。薬の飲み過ぎと精神不安定のため、一ヶ月も閉鎖病棟に幽閉されていた。初日に「恋人は死んだ」と聞かされていたかもしれない。けれどおれには彼女が見えていた。医者の隣で困った風に微笑む恋人がきちんと見えていた。 おれは、おれたちは死ぬつもりだった。眠るように死んで、この世の煩わしさから逃げ出したつもりだった。それなのに、おれだけ生き残ってしまった。あいつだけ死んで、おれだけ、おれだけがこの部屋に残された。 蹲る。嗚咽で喉と胸が苦しい。涙と涎でぐちゃぐちゃになった顔を妹に見せられなくて、床に這いつくばって呻き続ける。 「帰って、ください」 「……いやだ」 「死にやしません、ひとりに、してください」 ひとりに。おれだけに。 「……わかった、なんかあったら連絡して」 細い足首が躊躇うように部屋を出ていく。散らかったままのおれの部屋に、おれがひとりになる。 恋人の名前を呟く。呼ぶ。縋る。 返事はなかった。 - - - - - - - |