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後ろの正面だ、あ、れ


「誰か来るよう」
 困ったような甘えたような声音。
「大丈夫、この時間は誰も来ません」
 そこまで広くないロッカールームのベンチで指と視線を絡ませ合い、上気した肌を重ねる。
 試合後はほとんど毎回こうやってセックスをする。家まで待てない躾のなっていないおれと、恥じらいながらもそんなおれに身を委ねる可愛い恋人。遠くで誰かの名前がコールされている音や、廊下をスタッフが走る音すら興奮の呼び水になって疲れ切っているはずなのに快感を求める腰の動きが止まらない。「あっ、あ、ああっ」ぎし、ぎし、と古びたベンチの脚が軋む。
「ネズくん、イっちゃ、イっちゃう、あっ、あっ」
 おれも、と喉の奥から掠れた声が迫り上がってくる瞬間、後ろでがちゃりとドアノブの回る金属音がした――鍵を、かけ忘れていた。一層真っ赤になって口元を押さえる彼女に慌ててジャケットを被せ、恐る恐る振り返る。
「お気になさらず」
 ニヤニヤ笑いながら、キバナはわざとらしく丁寧にそう言った。「どうぞ、続けて」シャワーを浴びてきたばかりらしく、髪が濡れている。
「続けねぇの? あ、もしかしてゴーカン? そこのお姉さん被害者? じゃあひと呼ぶから待ってて」
 がちゃり、もう一度蝶番が鳴った。
「やめろ!」
 いまにも廊下に踏み出して本当にスタッフを呼び出しそうなものだから大声で止める。
「……閉めてください」
 がちゃり。
「……鍵も」
 かちゃり。
「出てけっていわねーんだ、変なの」
 しまった、確かにそうだ。突然のことに頭が働かなかったらしい。とにかく彼女に服を着せて、それから笑い話にでもしてしまおう。脱ぎ散らかした服を急いで拾い集め、泣き出しそうな彼女に手渡す。いやあ、いつもは誰もこねぇんで油断してましたよ。見なかったことにしてくれますか? もしお前が似たようなことをしてても、おれは黙っておきますから。キバナに話す内容を考えながら、すっかり萎えてしまったものを下着に押し込める。
「ネズくん……あの……」
 震える声と指先。指している方向を見ると、まだ下品にニヤニヤ笑っているキバナがいた。くるくると回る人差し指にはなにかがひっかかっている。じいっと見ると先刻おれが乱暴に脱がした彼女の下着だった。
「……それ」
「あー、これ? 落とし物。落とし物は受付さんに届けねーとな」
「……こいつのです」
「名前書いてあんの?」
 馬鹿らしい。声を荒げそうになるのを堪えて「とにかく返してください」と歩み寄る。おれが一歩近づくごとにキバナは一歩下がる。文字通りの一進一退だ。掴み掛かろうとすると「必死かよ」と笑われた。
「いやいや、さすがに分かるぜ。この子のだろ? 拾ってくれてありがとうございます、は?」
「失礼しました、拾ってくださってありがとうございます。助かりました。それじゃ、」
「おーっと」
 おれの慇懃無礼な台詞を遮り、キバナはずいっと前のめりになった。思わず一歩下がる。
「お礼は?」
「……金取ろうってんですか」
「まさか、オレたちの仲じゃん」
「はあ?」
「融通して」
「だから金は、」
「オレってさあ、健全な男子なわけ。バトル終わりで昂ってるところに、いきなり可愛い子のセックスシーンが目に飛び込んできてどんな気持ちになったと思う?」
「……国語の問題ですか」
 精一杯の皮肉を彼はやっぱり笑って躱す。
「一回ヤらせて」
 言葉よりも先に手が動いた。右手を強く握りしめて殴りかかる。頬にヒットする寸前、大きな手のひらがおれの拳を掴んで止める。行き場のなくなった衝動が歯軋りになって口の中で弾けた。
「金払う方がマシです。それをさっさと返してくれたらおれたちはすぐ出て行きますから、」
「それはネズの意見。ねー、そこの子、どお?」
「やめろ!」
 拳を掴んでいた手がぱっと離れ、手首を掴んだ。軽く捻られ、おれは無様にその場に転倒する。腰を強かに打った。
「や、あの、わたし、あの」
「キバナ、」
「うるせーな、すぐ終わらせるって」
 今度は立ち上がろうとした膝を蹴り飛ばされた。激痛に蹲る。明滅する視界の中、キバナが彼女に覆い被さるのが分かった。
「……やめろ、お前……」
「頭使えよネズ。オマエ賢いだろ。いまオレが大声出して誰か呼んで、この子がゴーカンされかけてましたっつったらふつうはどっちを信じる? はい、答えはオレ。オレ様は人望があるから。ねー?」
 最後の機嫌を伺うような問いかけは彼女に向けたものだろう。ぐすぐすと泣き声が聞こえる。返事もまともにできないくらい泣きじゃくっているようだ。悔しいがキバナのいうことは納得できた。
「終わったら下着の一枚や二枚返してやるからさ、脚開いて」
「やめろ……」
 ぎし、ベンチが軋む。
「や、やめ、」
 キィ、脚が床を擦る、
「あ、あっ、ああっ、や、あああっ!」
 ぐちゃりと水音がして、恋人は鋭い悲鳴をあげた。
「やっ、やあっ、やだ、や、くるし、はなして、やだ、やめて、や」
 吐き出すように懇願する声が途中で封じられる。くらくらして床に額をぶつけた。「くそ……っ」全部おれが悪いおれが悪いおれが悪いおれが悪い――おれが、全部悪いんだ。
「ッ、いて、」
 キバナが舌打ちした。唇でも噛まれたのだろう。
「ネズくんっ、ネズく、あっ、やだ、や、っ」
「やだっていわないでくれる? オレがゴーカンしてるみてぇじゃん」
「いや、はなして、やだ、あ、あっ、ああっ」
「声でけぇよ」
「ん、んんっ」
 這いつくばるおれからは彼女の顔は見えない。キバナの動きから察するに、口元を手で覆われたらしい。悲鳴がくぐもり、小さくなった。大きく開かれた脚は乱暴に揺さぶられるたびにびくんびくんと跳ねる。ぴんと張った爪先が生々しかった。
「ん、んう、んん……っ」
「気持ちよくなってきた? オレ、上手いってよくいわれんだぜ」
「ん……ぅ、ん、っん」
 やめろやめろやめろやめろ、やめろ、やめてくれ、彼女がおれ以外で感じるわけない、気持ちいいわけない、声がだんだん蕩けてきているわけが、ない、鼻につく甘ったれた鳴き声をあげているはずがないんだ、それなのに、おれの身体の芯はじわじわと刺激されて、
「……さい、あく、だ」
 自己嫌悪の呟き。一度は冷えた性器がまた熱を持ち始める。
「っあ、あ、キバナさ、あ、あんっ」
「かわいー声」
「んっん、んうっ、」
 涙混じりの喘ぎ声が部屋に響く。
「はっ、あ、ああっ! あ、あっ、んっ!」
 びくん、つま先が跳ね上がった。
「あ、はは、イった?」
 やめろ、
「彼氏以外のちんこでイったんだ、ははは」
 やめろ、
「やめてくれ……」
 おれの声は聞こえたかどうかは分からない。キバナはちらりと振り返り、またニヤリと笑ってみせた。吐きそうだ。
「目隠ししていい? オレそういうのすきでさ、ソフトSMっつーの?」
「あ、え、やだ、や、やです、いや」
「これしたらすぐ終わるから。それに、オレが見えない方がいいっしょ?」
 腰を引き、床に落ちていたタオルを手にする。はい、と彼女はいまにも消え入りそうな声で返事をした。しゅるしゅる、衣ずれの音。
「なんも見えない?」
「みえ、ません」
「ふぅん、そっか」
 キバナは身体を前に向けたまま、こちらに来いと手だけでおれを呼んだ。もうなにも考えられないおれはそれにふらふらと付き従う。キバナは「交代」と口パクで指示した。もう片方の手はおれのジャージの股間を指差している。かあっと顔が熱くなった。しいっと唇に指を当て、声は出すなと圧をかけてくる。なにを意図しているのか分からない。「はやく」また口パク。僅かに戸惑ったが、そもそもこいつが彼女を抱いていることはおかしい。そうだ、こうすることが本当は正解なのだ。前を寛げ、彼が乱入してくる直前までそうしていたように性器をあてがう。ひく、と細い腰が反応した。
「うあ、あ、ああ……っ」
 ずぶりと性器が沈んでゆく。声が出そうになるのに耐え、いちばん奥まで挿入した。「あ、んあ……っ」イったばかりの彼女のなかはきゅうと締まって快い。顔の横に手をつき、腰を動かす。気持ちいい、気持ちいい、愛しい、やっぱりおれだけの、
「キバナ、さん」
 淡い唇が震えた。
「あ、あの、手加減しなくて、いい、です」
「どーゆーこと?」
 傍のキバナが応える。
「さっき、みたいに、きもちよくして、くださ、い」
 さあっと全身冷たくなった。「キバナさん、」違う、違うのに、おれなのに「キバナさ、ん」おれなのに、どうして分からないんですか。
「あは、ごめんね」
 腰を抜かしたおれを後ろに追いやり、キバナがまた小さい身体に覆い被さる。
「気持ちよかったんだ?」
「……っ、は、い」
「彼氏より?」
「それ、は」
「うそうそ、冗談、いっぱいしてあげるから待って」
 やめろ、
「や、」
 やめてください、という言葉は彼女の嬌声にかき消された。「あっ、あ、ああっ!」ぎし、ぎし「キバナさん、キバナさ、」キィ、キィ「きもち、い、」やめろ、やめてくれ。
 頭のなかが真っ白になる。情けなく萎えたものをまたしまいこみ、蹲って頭を抱えた。
「ひっ、う、うあっ、あ、あんっ、キバナさんっ」
 頭ががんがんする。
「オレたち身体の相性いいっぽいね」
 また視界が明滅し始める。
「なあ、後ろにネズいるって、覚えてる?」
 きゃんきゃん鳴く彼女にキバナの問いかけは聞こえていないようだった。
 おれは絶望と虚脱感と悲しみと憎しみと、もうなにがなんだか分からなくなってしまった気持ちを抱え、這うようにしてドアまで逃げる。壁で身体を支え、なんとかして立ち上がった。
 かちゃり、鍵の開く音。
 がちゃり、ドアノブの回る音。
 さっき以上に激しく喘ぐ彼女を振り切るように部屋から抜け出す。ばたん、と後ろ手にドアを閉め、そのまま廊下を走ってスタジアムから逃げ出した。そこからの記憶は頼りない。なんとかして家に帰り着いたことだけが確かだった。鏡台に映る自分の顔が信じられないほど土気色をしていた。気絶するようにベッドに倒れた。
 数時間後、キバナからメッセージが届いた。動画が添付されていた。親指で再生ボタンを押すと、もうむり、しんじゃう、と大袈裟に喘ぐ彼女がフレームに収まっていた。おれはそこで初めて泣いた。悔しかったからではない。憎かったからでもない。ただひたすら、彼女が可愛かったからだ。おれ以外の男に抱かれる彼女が、本当に可愛かったのだ。
――あれから数ヶ月、キバナは毎日彼女とのセックスを動画か写真で送りつけてくる。おれはそれを見て、自分を慰めることがある、だって彼女は本当に可愛くて、おれの恋しいひとそのままなのだから。

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