肩が重い。頭が痛い。あくびが出る、これはただの寝不足。 「しまった、失敗した」 後ろでダンデが独りごちた。「まあいいか、スクランブルエッグにしよう」また卵をうまく割れずに目玉焼きを失敗したらしい。逆にすごいと思うね、オレは。ヒビを入れてただ割るだけなのに。 「オレはさあ、黄身が半熟の目玉焼きに塩胡椒するのがすきなんだよな」 「はあ? 文句をいうならはやく部屋を探せ」 「あーおいしい、世界一うまい、マジでサイコー、ダンデさま素敵、抱いて」 棒読みで褒めながらさっさと口に放り込む。コーヒーで流し込んで朝飯は終わり。ダンデがとろとろ食っているのを眺めつつ、自分の皿を洗う。蛇口の栓をひねった。「うわっ」スプリンクラーのように水が弾け、思いきり顔がびしょ濡れになる。冬の水はあまりにも冷たくて悲鳴が出た。「それ壊れてるんだ、あんまり栓を大きくひねるとまともに出ないぞ」「先にいえ、っていうか、直せよ」「そのうち」まさかダンデがこんなにだらしないとは知らなかった。 とはいえ大家とトラブルを起こしてマンションを追い出されたオレに「しばらくなら置いてやる」と有難いお言葉を頂いたのであまりぶつくさいえない。しばらく、といってから二ヶ月ほど経った。部屋探しは一向に進まない。オレはこだわりが強いから。 「どこで探すんだ?」 「んー、ナックル」 「意外だな、離れないのか」 「意外か?」 「……意外というか、まあ、なんというか」 口籠る理由は明らかだった。 オレが前のマンションを追い出された理由は女関係だった。「とても仲のいい友達」がセックスのあと「ねえ、記念日のことだけど」なんていうから「ハア?」と返事をした。「なんの?」「あたしたちの」「記念日?」「付き合い始めた記念日」「え、オレたち付き合ってたっけ?」あとはご想像の通り。雑誌やフライパンを投げつけられて壁に穴が出来、ガラスは割れ、高かったソファは引き裂かれた。派手に暴れたものだからすぐ苦情が入り、一週間で出ていかないと訴えるとまでいわれた。オレは悪くないのに。 だってオレ、別に恋人作るつもりなかったし。 ふと、背筋がぞくりとする。どこからともなく生ぬるい風がそよぐ。振り向いても誰もいない。 ここ二ヶ月、居候させてもらってからこんなことがほとんど毎日ある。風呂場には男ふたりどちらのものでもない髪の毛があったり、夜中に物音で目が覚めたり――オレは幽霊を信じていなかったが、こうまであからさまにいろんなことが起こると信じてしまいそうになる。 というのも、心当たりがあるからだ。 部屋を追い出される少し前、幼なじみが行方不明になった。水難事故だった。世間では死んだものとして扱われ、身内も諦めきって葬式のような儀式を執り行った。オレもダンデも参加して、花を捧げた。白い百合の花を。「あの子はかすみ草が好きなんだけどな」とダンデが呟いたのが忘れられない。オレたちはまだ彼女が生きているものとして、決して過去形は使わないようにした。 「この部屋ってさ」 「うん?」 「事故物件とかじゃねえ、よな?」 「いきなりなに言い出すんだ」 「なんかこう……ぞくっとしねぇ?」 「気がついたか。エアコンが壊れてるんだよ」 「おい! だから直せよ!」 「そのうち」 前にもこんな風に感じたことはある。オレたちがやいやいと騒いでいるところに視線を感じて振り返ると彼女がこちらを見ているのだ。話しかけようとすると、踵を返して去ってゆく。追えば逃げる、さらに逃げるから追う、オレたちは下手くそな鬼ごっこを繰り返した。気がついていたのに、オレはどうしたらいいのか分からなくてきっといつか彼女を恋人にするだろうと思っているうちに、こんなことになってしまった。 アイツはやっぱり死んじまったんだ。ああ、確かにかすみ草のように儚い子だった。顔のひとつでも見せてくれたらいいのに。 「なんだキバナ、幽霊でも怖いのか」 はは、と愉快そうに笑うダンデの影が奇妙に動いた気さえする。怖いというよりも、頭がおかしくなりそうだ。 「牛乳ある?」 「冷蔵庫の扉に」 「違う、賞味期限の切れてない牛乳はあるかって訊いてんだ」 「じゃあ、ない」 まったくコイツときたら、デリカシーの欠片もない! 外ヅラはいいくせに、自分の生活にはまるで頓着しないようだ。そんなやつにあの子が幽霊になっててさ、なんて話しても無駄だろう。おかしくなりそうな頭を抱え、牛乳を買いにコンビニに走った。 だらしないダンデと、取り憑いた可愛い幽霊。このままじゃ部屋を決める前にオレがダメになってしまう。 半泣きでネズに相談したら「おれ、幽霊見えますよ」と真顔で応えられた。「おい、オレは冗談いってんじゃないぜ」「おれもです、ジョークなんかいってる顔に見えますか」いつも通りの青白い真顔。コイツも幽霊みたいだな。近い存在なのかもしれない。 近くにいたからと雑な嘘をつき、居候の部屋にネズを通した。「やあネズ! 紅茶でも飲むかい?」「茶葉切らしてるだろ、適当なこというな」「そうだったか、じゃあコーヒーは?」「いえ、なにも」「なにか必要になったらいってくれ!」ソファに寝転び、世帯主は手をひらひらと振った。 「な? いるだろ? 女の子、オレの幼なじみ」 「幼なじみかどうかなんて分かりゃしませんよ。でも、いますね」 うわー! やっぱり! 思わず自分の身体を抱きしめる。 「オレに取り憑いてんだよ!」 「なにいってんですか、お前じゃねぇです」 「……は?」 そこ、とネズはソファを指さした。大きく脚を広げて寝こけているダンデがいる。 「お前にじゃなくて、ダンデに取り憑いてます」 「……はい?」 「ソファの背もたれの上に肘ついて、あいつの寝顔を覗き込んでる女が見えます。たぶんあれは笑顔ですね」 くぁ、とダンデが寝ているのに大きな欠伸をした。シャツを捲って腹をかく。見られているとも知らずに。 「うわあ……だらしねぇやつ」 ネズが本当に呆れたように呟いた。 「まあとにかく、お前に憑いてるんじゃなくてよかったですね」 見当違いの慰めの言葉にオレは上手い返しが思いつかない。 テーブルに飾ったかすみ草が、風もないのに揺れた。 - - - - - - - |