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いずれあやめか、

 パンを齧ろうと口をやや大きく開けると、乾燥のせいで唇の端が切れた。反射的に人差し指でなぞる。赤い血が指の腹にべったりついて思ったよりも傷は大きかったらしい。そういえば最近、火事も多い気がする。夜毎サイレンの音も聞いている。乾いている時期はあまり好きではない。雨降りの方が落ち着けて好ましいし、じとりとしているおれに似合っている。昨日買ったリップクリームはどこへやったっけ。リビングの抽斗という抽斗をあけてひたすら探す。昔からずっと使っているあの青いやつ。入れた覚えのない棚にあったパッケージを破り、唇にゆっくり塗る。二度、三度。切れた部分は薄くワセリンで覆う。どちらも昔、好きだったひとに教えられたものだ。「ネズくん、唇の端が切れてるよ」隣のお姉さんは、おれを弟みたいに可愛がってくれた。「切れたところはちゃんと保湿しないと痕になるから」としゃがんで、ポーチから小さい容器を出して指で少し掬い、自然な動作でおれの傷に触れた。頭を撫でられたことはたくさんあっても、唇は初めてだった。どきん、として耳が熱くなった。くるくると指先が動いて「はい、乾燥には気をつけようね」にこ、慈愛の笑み。「あ、ありがとう、ございます」だんだん声が小さくなってしまったのをよく覚えている。指先がなかなか離れなくて、おれはパニックになっていた。「唇も乾燥してるね」「気をつけ、ます」「顔上げて」「はい」お姉さんの顔が近づいて「あ」時間にすれば2秒ほど、お姉さんは自分の唇をおれにぶつけて、食むように動かした。食べられる、と思った。このままお姉さんに飲み込まれて、おれがおれでなくなってしまうと思った。「ふふ」離れていったあと、自分の唇に小指で触れる。「今日はわたしのを分けてあげる」それから「このリップクリームあげるね」とポケットから青くて細いものを取り出して握らせてくれた。そんな淡い思い出だ。おれは本当にどきどきしてその夜は眠れなかった。ファーストキスだった。お姉さんからしたらキスにはカウントしない、なんてことない行動だったとしても。思い出のなかのお姉さんは眩しくて、人懐こい表情をしている。お姉さんは結婚してこの街から出て行って、それからはいちども会っていない。たまに連絡を取る妹曰く、とても幸せそうに暮らしているそうだ。何度か写真を見るかと訊かれて、何度も断ってきた。きっといまでも美しく優しい微笑みを浮かべているのだろう。それでもおれは過去の、あの一瞬のキラキラと輝く表情を恋し続けるのだ。

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