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イワンのばか

 浮気、というものがどこからを指すのかはいまだによく分からない。
 おれたちは恋人同士で、でも世間一般のそれよりは割ととドライな関係だ。徒歩5分のところに住んでいて、ほぼ毎日お互いの家に泊まる。それなら同棲すればいいのでは、と思うのは当然だが「引っ越しがめんどくさい」という彼女の一言がそれを実現させなかった。
「昔の友人と飲んできます」
 これは浮気ではないという証明に、彼女以外の女と会うときには事前に申告する。例えそれが人妻でも、だ。「メロンさんとポプラさんの買い物に付き合ってきます」……それが誰であっても。
 そうするのは彼女も同じで、俺以外の男と会うときにはきちんと申告する。酒好きの彼女は朝まで飲み明かすことが多く心配になるのだが「キバナとダンデくんがいるから大丈夫!」というので、信頼できる友人ふたりに任せている。
 キバナは時折飲みながら「このままホテル行ったら怒る?」などとべろべろの状態で電話をかけてきたり、ふたりで撮った写真を送ってきたりする。避ける彼女に無理やりキスをしようとするキバナの写真だ。ふたりの顔は真っ赤で、呆れるくらいに酔っていることがわかる。「無事にうちまで送り届けてください」しかしこれは事前に申告されているので浮気ではない。だからおれは安心して眠りにつく。彼女はきっと朝帰り。そして夕方まで寝て「昨日楽しかったからネズくんも今度行こうよ」と陽気に誘うのだ。
 本気になれば、ホテルどころか、キバナの家にだって連れ込めるだろう。それをしないのは、彼らとおれ、彼女とおれの間にある信頼関係からだ。キバナもダンデも、女の扱いが上手いから、きっとおれの彼女とおかしなことになりはしない。それに、あいつらになら勝てるという自信もあった。根拠はないが、確固たる自信だ。キバナにはない誠実さがある、ダンデにはない大人らしさがある、不健康なところだけはどうしようもないけれど。
 彼女はおれのことが好きなのだ。それだけは揺るぎない事実。もちろん、おれも彼女を愛していた。酒癖の悪いところも、男友達の方が多いところも、バイトをよくサボるところも、太ももを剃刀でよく切るところも、セックスのときに恥ずかしがって声を我慢するところも、全てが好きで仕方なかった。
「明日派遣でキルクス行くんだ。カフェのヘルプ」
 今度は派遣を始めたのか。ピロートークには似つかわしくない話題に、おれは店名を曖昧に頷いて聞いて流す。
「早起きするから、起こしてね」
「はい、おやすみなさい」
 目を閉じる愛しい人を眺め、前髪を撫でてやる。今度は長続きするといいですね。
 翌朝は起こし忘れたので、彼女は大慌てで家を出て行った。申し訳なかったので帰ってくる頃にはなにかお詫びのものでも用意しておこうか。……そういえば何時に帰るか聞くのを忘れた。まあ、ケーキでもあれば簡単に許してくれるだろう。この辺には碌な菓子店がないから――それならいっそキルクスに行って晩飯でも奢るか。そうだ、そうしよう。サプライズというものをしたことがないので、いい口実になる。やっと恋人らしいことができるじゃないか。
 日が暮れるのが早くなってきた。人通りが増えてきたところで外に繰り出す。キルクスが近くて助かった。ハロンくらい遠ければサプライズなんか思いつかなかったに違いない。
「……さっみぃ」
 少ししか離れていないというのに、この寒さ。仕事帰りの人々と逆流してカフェを探す。フランス語っぽい名前のカフェだった気がするが、定かではない。きちんと聞いておけばよかった。
 うろうろしていたら人通りの少ない道に出てきた。すれ違う人々は男女が多い。みなうつ伏せ気味で、いまからなにか悪いことでもするかのような暗い顔をしている。ホテル街だった。こんなところにいても意味はない。片道を戻ろうと振り向いた、そのときに、
「……あ、え」
 彼女がいた。
 ああそうでしたか、カフェってこの近くだったんですね。朝起こせなくてすみませんでした。間に合いましたか? ところで晩飯でも一緒に――
「ネズ、さん」
 考えていた台詞が言えなかったのは、彼女が男とホテルから出てきたところだったからだ。キバナでもダンデでもない、よりによって、マクワと。せめてマクワが「ネズさん」と馬鹿正直に呼びかけなければ見なかったふりもできたかもしれない、のに。
 髪と口紅が乱れている彼女は顔面蒼白で、火照っているマクワとは正反対に見えた。その様子でさっきまでふたりがなにをしていたかを察してしまう。
「あ、えっと、」
 難しい顔のおれを見て、彼もまた状況を察したらしかった。組んでいた腕を慌てて解き「す、すみません……!」と土下座するために膝をついた。「やめろ」いくら人通りが少ないとはいえ、そんなことさせられるわけがない。よりによりって、キルクスで、マクワに。
「……嘘ついたんですね」
「……嘘、じゃないよ。さっき仕事終わったの」
「……へぇ」
「……ただ、マクワくんと会うことは、言わなかっただけ」
 重苦しい会話が続く。膝をついたままのマクワはおれを見たり彼女を見たり忙しい。
 マクワは誠実だ。器用で、礼儀正しく、育ちも良い。ついでに健康体で皆の人気者――はは、おれと正反対じゃねぇか。
 ホテルから出てきたということはつまり、そういうことなのだろう。マクワの大きい、若い身体が彼女の小さい身体を貪って、たぶんいつもと違って声を我慢せず大声で喘いで、それで、ふつうの恋人同士みたいに深いキスをして、それで、たぶん、きっと、
「ぅ、っお、え」
 その場でがくりと頽れ、思いきり吐いた。キバナやダンデと怪しくなったときにもなにも感じなかったくせに、なにもいわずに朝帰りしたときも軽く説教したくらいで終わりにしたくせに、いざ予想だにしていなかった男が登場すると、情けなく嘔吐するしかできなかった。
「ごめん……」
 謝る彼女の指先には見たことのないリング。
 だって、どうしようもない。おれと彼は違いすぎる。おれには金もないし、不器用すぎて恋人らしいことをひとつもしてやれなかった。
「ぼくから誘ったんです、だから彼女は」
「マクワくんやめて」
「だって、ぼく、」
 お互いを庇い合う会話が可笑しい。おれと話すときより、ずいぶん優しい口調なんですね。年下にはそうやって甘い言葉で囁くんですね。
 キバナかダンデなら、まだ殴り合いもできたのに。いつの日か笑い話にできたかもしれないのに。
 マクワか、それは盲点だったな。
「はは、」
 乾いた笑いが雪に溶けていく。「バカみてぇですね、おれ」果たしておれが本当に恋人だったのか、それすら定かではない。あまりにもおれと違うものを持ちすぎているマクワが本命で、おれはつまみ食い程度のものだったのかもしれない。それなら頑なに同棲を断るのも理解できる。おれの知らないところで、マクワを引っ張り込んでいたかもしれないわけですからね。
「おれは帰ります。あとはふたりで好きにしてください」
 さくり、雪を踏む音。あまり積もっていないのですぐに土が滲んで汚い色になった。まるでおれの心模様のようだった。

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