「ガクブチって何処で買えるんですかね」 「ガクブチ?」 「絵を嵌めるアレです、額縁」 もう空になっている皿をフォークでコツコツとつつきながら、ネズはまるでピンとこない質問をしてきた。オレは鴨肉を咀嚼し始めてしまったのでなんとも返事ができない。顎を動かしつつ考えるが、アートには興味がないのでやはりまともな返事は用意できなかった。 「いきなりアートに目覚めちゃったわけ?」 「大きい絵をもらったんです。その辺に放っておくのもなんなので、折角なら額装して飾ろうかと」 「ふーん」 「お前に聞いたのが間違いでしたね。ネットで探してみます」 ムッとして見せてもネズは平気な顔。視線も窓の外にやって、目の前のオレのことはどうでもいいように見えた。早く帰りたいことが丸分かりだ。自分からたまには晩飯でもどうだと誘ってきたくせに。「オマエ奢れよ」ワインを飲み干してぴしゃりと言う。ネズはなんでもなさそうな顔でウェイターを呼び止め、黒いカードでさっさと支払いを済ませた。 帰り道にどんな絵を貰ったかくらい訊けばよかったかな、と思ったが、わざわざメッセージを送るほどでもなかった。あの白と黒ばかりの素っ気ない部屋に似合う絵を考えてみて、まるで思いつかないのですぐにやめた。 「はいぃ? ネズがドタキャン?」 あの晩飯から一週間ほど経ち、奴がサプライズで登場するはずのエキシビションマッチに現れないとスタッフがフロアを走り回っていた。ダンデには一言メッセージで「今日行けなくなりました」とだけ来ているらしい。サプライズってつまり、いまからオレが出る試合なんだけど。代打で客席にいたマクワを引っ張り出してなんとか形にした。いちばん目立つ位置を陣取っていたエール団だけが変な顔をしていた。 ムカついたので何度も電話をかけた。出やがらない。オレ様の電話をシカトするってどういう状況だ。更に腹が立ったので直々に文句を言うためにスパイクタウンに向かった。このクソ寒いのにわざわざキバナ様が出向くんだ。つまんねぇ理由だったらぶん殴ってやる。 呼び鈴を鳴らし、派手にドアを蹴り飛ばした。傍から見たらただの輩だ。 「もしもーし、ネズさーん、いるんでしょー? 開けてくださいよー」 まるで借金取りのように呼び続ける。「おいコラ、オレだよキバナだよ、早く開けろバカ」そろそろ近所迷惑になってきた。少し焦ってドアを叩く力を強くする。どん、どん、どん、何度めかでようやく向こうから摺足で近づく音が聞こえてきた。 がちゃり、ドアがやっと開く。 「……ノイジーなやつですね、まったく」 服も髪もまるでセットされていない、いまのいままで寝ていたことを隠そうともせずネズが現れた。欠伸までしている。殴りたいのを我慢して精一杯優しく「体調不良か?」と聞いてみる。それなら最初から自己申告はずなのでそうでないことは分かりきっていた。 「寝てましたよ、見りゃ分かるでしょう。ま、玄関先で喧嘩するのもよくないので中どうぞ」 掴みかかろうとしていた手が空回りする。乱暴に靴を脱ぎ散らかしてどかどか上り込んだ。相変わらず整理された、というかなにもない家だ。必要最低限のものすら揃っていないように思える。その代わり楽器は無駄にあるけれど。 「……あ?」 通り下がろうとしていた寝室をちらりと見て、なにか真っ黒い大きなものがあることに気づく。「あ、絵じゃん」バカみたいな台詞が溢れた。 「それです、この間言ってたやつ」 真っ黒、ではなかった。パッと見た感じでは黒地にグラデーションで仄白色の拳大の丸が描いてあるように見える。真っ暗なトンネルの向こう側だ。廃トンネルだろうか。よく見れば暗い中にも錆や土砂みたいなものも描き込まれている。 「なんか陰気な絵だな……」 蔦が絡み付くようなデザインで灰褐色の額縁はよく似合っていた。よくこんなにぴったりの意匠を見つけたものだ。 「あれ、これ女の子が描いてある?」 うっすら、ぼんやり、光の向こう側に佇む人影が見えた気がした。近づいてもっとよく見ようとする。するとネズに首根っこを掴まれて「喧嘩しねぇなら帰ってください」と追い出された。またどんどんと音を立ててノックしたけれど今度は無駄だった。 「いまネズの家行ってきたんだけどさ、なんかメンタルやばそうだった」 ダンデに一応電話で告げてみる。「分かんねぇけど、さっきまで寝てたってさ」ダンデは困ったようにううんと唸り、オレに定期的に様子を見に行ってくれるよう頼んできた。「別にいいけどさぁ……」特に近所でもないのに、なんでオレなんだろう。ああ、今日来ちまったからか。貧乏くじ引いたな。帰り道にエール団がネズの様子を聞いてきた。「生きてた」とだけ答え、明日の試合のためにとっとと帰った。「明日の試合にもネズさん出ますよね?」の質問には答えなかった。 「……まーた来てねぇのかよ、無責任だな」 次の日、また同じ連絡があってネズは来なかった。 「え、また?」 その次の試合も来なかった。 「あれ、今日も?」 顔出しだけのイベントにも来なかった。 「もう一ヶ月くらいアイツ見てねぇんだけど」 「おい! 定期的に会ってくれって頼んだだろう!」 「彼女じゃねぇんだからそんな頻繁に会うわけねぇじゃん!」 「今日様子見してきてくれ、頼んだぞ」 「え、オレ様今日デートで」 「頼んだぞ」 泣きながら女の子に断りのメール入れた。返事がなくてもっと泣けた。 今日こそ絶対殴ってやる。ポケットの中で鍵を握りしめ、一ヶ月と少し前と同じように玄関のドアを蹴った。何度も。 「コラ! ネズ!」 ビビらせようとドアノブをがちゃがちゃと激しく鳴らそうとして、鍵がかかっていないことに気づく。勢いでそのままドアを開けた。いつものブーツがきちんと並べられている。 「いんのか?」 返事はない。最近色んな人間にシカトされてばかりだ。 「また寝てんのか、おーい」 呼ばれていないのに上り込むなんて通報されてもおかしくないな、と変に冷静に考える。この前と同じ足取りで寝室に進んで、歩みを止めた。 「ネ、ズ」 ひどく乱れたシーツ、妙に汚いフローリング、大きく傾いた絵画。 「え?」 力強く瞬きをして目を擦る。 蔦の絡んだ額に収まった黒々とした大きな絵、光の先にある人影、先日気付いた時にはひとりだったのに。 「増えてる、よな?」 誰に言うでもなく、自分に言い聞かせるように呟いた。触れない程度に指で絵をなぞる。 「あれ、これ、え、ネズ?」 あの特徴的な髪と細い身体は後ろ姿でもよく分かる。指先にぼんやりとしたネズがいた。霞んだように描かれた女の子の隣に、同じようなタッチで佇むネズがいた。ネズが、平面になっていた。 頭か目がおかしくなったのかと思った。それでもそうとしか考えられない。指先のネズは裸足に見える。そっか、ブーツは玄関にあったしな。服装はよく分からない、いつものユニフォームではなさそうだ。恐らく部屋着だろう。この部屋にいたまま、あのまま、この絵に吸い込まれたに違いない。 そんなことってあるかよ。 あったとして、誰が信じるんだよ。 ダンデにはなんて説明すればいいんだよ。 「アイツ……ほんっと無責任……」 とりあえずスマホを取り出して、ネズの連絡先を呼び出す。 〈この連絡先は登録されていません〉 おい、どこまで無責任なんだ、オマエ。 - - - - - - - |