あれは間違いだったといまならはっきり言える。 十何年か前、ミュージシャンとして少し売れ始めた時期に何度か呼びつけた手首に縦線が何本も入っていた目つきの危ない、セックスのときに首を絞めるよう求めたあの女。どうしてあんな女を抱いてしまったのかはっきりとは分からない。身体の相性がよかったとか、呼べばいつでも来たとか、それくらいの理由だ。愛していたという事実はない。その証拠に、そいつの顔はすぐには思い出せない。たった数ヶ月の付き合いだった。 「お父さん」 だから目の前にいる娘が自分の種だとは、とても信じられなかった。 「パパって呼んだ方がいい?」 「……人違いです」 最初はただの危ないやつだと思い、すぐに視線を逸らして駅に向かおうとした。裾を掴んだ娘が口を窄めて問いかける。「ネズさん、遊ぼ」その声と口調は何年も前の、記憶の底に封じ込めていた忌まわしい女のもの。急激にあの日々が思い出され、思わず振り返る。に、と娘が笑った。 ――ああ、あの時もこの場所で話しかけられた。この娘と同じ声、同じ顔ををした女に話しかけられた。あの女と違うのは、瞳の色。いま目の前にあるのは、おれと同じ淡いブルーの瞳。「ネズさん、遊ぼ」そして思い出す爛れた日々。もう十何年も昔の話なのに、鮮烈に思い出してしまう。 たった一言でおれの脳内を支配してしまった娘は満足そうな顔をした。忌々しいことに、本当にあの女と似ていた。 誰かに聞かれていないとも限らないのでそれ以上言葉を交わさず、黙ってタクシーで家に連れて帰った。道中はどちらも無言だった。娘は飴を口に入れ、すぐに噛み砕いた。その癖も、あの女と同じだった。 「うわー、おっきい家」 お邪魔します、と丁寧に言い、娘はラバーソールを脱いで上がり込む。紅茶でもどうかと問いかけると、飲めないので水がいいと返された。どこまでもあの女と同じで腹立たしくなる。瞳の色以外は、まったくあの女そのものだった。 クッキーをかじりながら娘は名前と年齢を明かした。名前はともかく、年齢は逆算すると確かにあの女と関係していた時期と合っている。女の年齢は知らなかったが、おれよりふたつほど歳上だったようだ。 「お母さんは死んだよ、ちょっと前に」 自死だったという。違和感はない。あの頃から、いつ死んでもおかしくないようなやつだった。 ストレートに、金が欲しいのかと問いかける。 「ううん、会えたらラッキーだなって思った。お母さん、薬を飲むといつもあなたの話してたから」 認知してほしいのかと問うてみる。 「あは、なにそれ? 分かんない。分かんないからそういうのいいよ。ねえ、お父さんとパパ、どっちで呼ばれたい?」 少し迷って、どちらでもいいと答えた。いまさら誰の父親にもなりたくないが、自分の子どもだと名乗る人間に名前で呼ばれるのも妙な感じだ。 「結婚してないんだね」 マグカップに注がれたミネラルウォータを一気に飲み干し、娘は「バイトばっくれちゃって行くとこなくてさ、ここに置いてくれない?」と事もなげに言う。母親が死んでから寮付きのバイトで生きてきたが、なにもかもが嫌になっておれを頼りにここまで来たらしい。そういう危なっかしいところまでそっくりだ。あいつも何度もバイトを変えていたっけ。記憶の彼方の「あは、またバイトやめちゃった」と苦笑いする顔が思い出される。いまも目の前に同じ顔があった。 少しの罪悪感と好奇心で、しばらくなら置いてもいいと返事をした。誰かに怪しまれたら親戚の子とでも説明すればいい。 「わたしが現れてびっくりした?」 「そう、ですね。お前は母親似なので」 「お母さんの昔の写真見たよ。あなたと写ってるやつ」 「そんなもんあったんですか」 「うん。一枚だけ。お母さんと一緒に燃やしたからもうないけどね」 悪気はないのだろうが、言葉のひとつひとつがちくりと胸を刺す。言葉の間に唇を舐める癖とか、たくさんあいたピアスとか、服の趣味とか、どれをとってもあいつと同じ。まるであいつがあの日のまま、また現れたかのよう。それでも、時折鋭くおれを見つめるブルーの瞳が現実を突きつける。 「お前なんて知らねぇ、とか言われると思ってたな」 言いたかった。本当はそう言うべきだったのかもしれない。だがおれは酒とバラの日々を共に過ごしたかつての女が現れて、そんな冷静に対処できるような人間ではなかったのだ。 「お母さんってどんな人だった?」 「……いまのお前は瓜二つですよ」 話し方もなにもかも、怖いくらいに。 それよりもあいつから見たおれがどんな男だったのかを知りたかった。いきなり連絡を絶った薄情な男、妊娠させて逃げた汚い男、都合のいい時にしか会わない身勝手な男。そんなところか。 「お母さんはあなたのことほんとに好きだったよ。眠くなる薬を飲んだら、昔話をしてくれた。ライブがかっこよかったこととか、変な男に絡まれてたところを助けてもらったとか、寝付くまで見守っててくれて優しかったとか」 そういわれてみればそんなこともあったかもしれない。空になったマグカップの縁を指でなぞり、娘は笑った。 「だからわたしもお母さんも、別に恨んでないよ」 いっそ罵られた方がよかったに違いない。おれは居心地が悪くなってなにも応えられなかった。聞いてしまったことを後悔しつつ、それでも表情は崩さないようにした。「そうですか」考え抜いて出てきたのは、我ながら冷たい返事だった。 その日から持て余していた部屋を娘に与え、家の合鍵も持たせた。しばらくなら、と前置きをしたが、いつまでいてもいいと付け加えておいた。細やかな贖罪のつもりだった。その意図を汲み取ったのかは分からないが娘は大喜びで「お父さんありがとう!」と飛び跳ねた。お父さんと呼ばれてもおかしくない歳であることは自覚があるが、実際に呼ばれるとやはり可笑しな気分になった。 「バイトは?」 「見つけたよ、ちゃんと生活費入れるから心配しないで」 「そんなことは別に……」 「もう大人なんだからそれくらいするって」 「あまり夜更かししないように」 「あ、これから出勤だから」 「……夜勤ですか」 「あのー、駅の近くにあるラウンジ!」 「……お前未成年ですよね」 「飲まないから大丈夫」 「それならいいですけど」 「あは、お父さんだってわたしの歳でガンガン飲んでたくせに」 「だから忠告してるんですよ」 そんな会話をしたのに、彼女は出勤するたびに酒のにおいを隠さずに帰宅した。朝、日の出と共に帰宅し、シャワーも浴びずにベッドに沈む。もう一度起きる頃にはおれは家を出る時間で、シャワーを浴びる前に「いってらっしゃい」と声をかけられる。親子の会話なんて全然ない、奇妙な同居だった。 「たっだいま!」 「……うるせぇ」 「あれ、お父さん寝てないのー?」 ひたひたと裸足の足音がこちらに近づいてくる。ぴょこん、半開きだったドアから娘が顔を出した。目元がとても赤いうえに、離れていても酒のにおいが強烈だ。 「今日は休みなんで」 「いま四時だよ」 「もう寝ます」 「シャワー浴びてくるから一緒に寝よ!」 待て、と声をかける前に浴室に走っていく足音が聞こえた。かなり酔っているようだ。これ以上絡まれるのも面倒くさいのでライトを消してシーツに潜る。ドアは半開きのまま。 ――ネズさん、遊ぼ。 ――ネズさん、大好き。 ――ネズさん、ネズさん。 「お父さん」 はっと目が覚める。とても淫らな夢を見てしまった。あの声は紛れもなくあいつのものだった。 顔を起こすと仰向けに寝ているおれに娘が跨っていた。暗がりのせいで表情はうっすら分かる程度。目の色はまるで分からなくて、そのせいで、 「あは、勃ってるぅ」 さっきまで夢の中で抱いていたあいつが重なって、下腹部が熱くなった。 「お母さん思い出した?」 舌を舐める。 「わたし知ってるよ。お母さんとはセフレだったんでしょ? セックスさえできればよかったんでしょ?」 「な……っ」 柔らかい手がそこを撫で、揉む。背中が快感でぞわりとした。本来なら嫌悪感があるはずなのに、タブーであるはずなのに、おれは娘相手に欲情しているようだった。 それもこれも、全部あの女のせいだ。 「ね、わたしとも赤ちゃん作ろ」 囁かれた言葉に抗わず、かつてそうしていたように目の前の女を押し倒し、抱いた。喘ぐ声も、快楽に歪む顔もまるで同じ、あいつを抱いているのと同じ。「お父さん」「違う」「あは、ネズさん」「……ッ」手が細い首に伸びる。女は拒否しなかった。手のひらに力を込めて酒臭い呼吸を制限させる。女は苦しそうに、でもおれと同じ色の目を細めて「きもち、い」と零した。連動するようになかがぎゅうと締まり、久しぶりのセックスだったせいも相まってすぐに射精してしまった。最後の一滴まで注ぎ込んでから腰を引く。「あは、」掠れた声で女は笑う。「お母さんとどっちがよかった?」おれはいつかと同じように、うまく答えられずにただ頭を横に振った。 「ネズさん、これからもよろしくね」 ちゅ、と頬に口付けられ、ようやくこの関係が親子ではなかったことに気づく。血は繋がっている。それに間違いはない。これはあの時のやり直しだ。女が形を変えてまたやってきたのだ。 なにもかも間違いだった。かつての関係も、いま出来上がった関係も、すべて間違いだ。いくら悔やんでも身体は悦んでいる。もう一度女を抱くために身体を動かす。女はとても嬉しそうに唇を舐め、おれを見つめた。その手首にはいくつもの縦線が入っていた。 - - - - - - - |