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異端者のかなしみ



 いらいらすると親指の爪を噛むのは昔からの癖だ。だから綺麗に切りそろえても右親指の爪だけは歪なまま。短くなっている爪を見ては「いま苛ついているのだな」と実感する。いまもまさにそれだ。
 目の前には最近籍を入れて恋人から妻になったばかりの女と生まれたての赤子がいる。妻は「ネズさんに似てますね」なんて言って微笑んだ。全然、まったく分からない。ふにゃふにゃで、つついたらそこから崩れていきそうなくらい脆く見える。
「おねむかなぁ?」
 大きなあくびをした赤子を愛おしそうに抱きしめ、彼女は子供部屋に歩いて行った。「よーしよし」と優しい声が聞こえる。「ネズさん先に寝ててください」とも言った。
 かり、爪を噛む音。大人気ないことは自分でも分かりきっている。母親とは子供に愛情を注ぐものだ。けれど、あの暖かい眼差し、優しいキス、甘い声――いままでは全ておれのものだったのに。
 生来、親というものから愛情を受けて育たなかったおれは愛というものに疎く、しかし貪欲だった。彼女に出会って初めて「愛される」の意味を知った。言葉にしろといわれると難しいが、溺れた人間が藁を掴むように彼女に縋った。とにかく、それなしでは生きていけなくなってしまったのだ。彼女は聖母のように広い心でだめなおれを受け入れてくれた。細い腕で精一杯抱きしめてくれてどんなときも「わたしがいるから大丈夫ですよ」と囁いてくれた。薬も酒も煙草も、彼女と出会ってからやらなくなった。ぽっかり空いていた大きな穴が、彼女によって塞がったといえる。求めれば与えられる快感、愛されているという自信、いままでの分を取り戻すように彼女を欲してきた。
 その結果が、あの小さい生き物だ。
「ママはここにいますよー」
 小さく聞こえた言葉にまた爪を噛む。あんなの、いままではおれだけにしか言わなかったのに。そもそもママでもなんでもなく、おれの恋人だったのに。この二ヶ月ほどずっとあの調子で、おれは二の次三の次になっていた。毎日、キングサイズのベッドを持て余している。
 妊娠が判明したときには嬉しかった。彼女は堕胎しろと言われることを覚悟していたようで、おれが喜んだときには驚いた顔をしていたっけ。いわゆる愛の結晶が身を結んだことは祝福すべきことだ。愛し合っていることが間違いではなかったと肯定されている気分になった。どんどん大きくなる腹部に彼女は毎日怯えていた。それを慰めてきたのはおれだ。だから、この状況は実際おかしなものだった。
 やがてあやす声が聞こえなくなり、赤子が寝たことが分かる。物心つく前の記憶はないが、おれはあんな風に寝かしつけてもらったことはないはずだ。母親とはあんな風に振る舞うものなのか、と少し勉強になる。思えば妹もそうだったかもしれない。なかなか眠らない妹にいつまでも絵本を読んでやった覚えがある。
 記憶にある母親といえば、朝方帰ってきて酒と薬をあるだけ飲んで一言も話さず寝てしまう姿だ。父親のことはもっと覚えていない。思春期以前のことは殆ど頭になかった。いまでも連絡する身内は妹だけだ。
 できるだけ静かに子供部屋のドアを開ける。枕元にある小さいライトをつけただけの薄暗い部屋。
「わ、びっくりしました。どうしましたか?」
 特になにかあったわけではない。だから返事に困り、ただ彼女を見つめる。
 ふわふわのぬいぐるみやキラキラしたモビール、キャラクターものの小さいシーツ、まるでおれの家の一室とは思えないファンシーな部屋だ。それも少し気に食わなかった。急に現れたエイリアンに文化を押し付けられたような感じだ。それでも、彼女が自分の子どものために選んだものなのでなにも文句は言わない。
「……一緒に、寝ませんか」
「うーん、この子がすぐ起きちゃうのでわたしはここで寝ます」
 エイリアンは三時間毎に起きては腹が減っただの漏らしただのと泣き喚く。手伝ってはいるが次の日に仕事があるおれにはなかなか難しくて彼女に任せきりだ。きっと、それもよくないんだろう。
「寝顔見てみてください、ネズさんに似てるんですよ」
 ふふ、と可愛らしく笑うものだからつられてベビーベッドを覗き込んだ。やっぱり似ていない。親の贔屓目にしても、盲目すぎると思った。
 本当に、こいつを羨ましいと感じた。母親というものの愛を一心に受け、おれの恋しいひとからも愛を注がれて。
「ネズさん?」
 また爪を噛んでいたようだ。この癖を知っている彼女は不安そうに呼びかけた。
「ネズさん!」
「……あ、」
 皮膚を噛みちぎったせいで血が出てきた。それが見えたのか、慌てて彼女がこちらに寄ってくる。「癖、出てますよ」すぐ横にあった引き出しから絆創膏を出し、あっという間に手当てをしてくれた。「寝ぼけてますか?」優しい言葉になんとも答えられず、黙って首を振り、ベッドルームに向かった。
 久しぶりに握ってくれた手は、とても暖かい手だった。その余韻を忘れないうちに自涜に耽り、捨てたと嘘をついて隠しておいた薬を飲んで寝た。親指が僅かに痛んだだけで、よく眠れた。
 翌朝、朝食を用意しようとしてうっかりナイフを床に落とした。腕を掠めたせいで皮膚が薄く削がれ、つうっと血が出てきた。慣れない怪我におろおろしていると、すぐに彼女が飛んできて消毒と手当てを済ませてくれた。大袈裟に巻かれた包帯が可笑しかった。
「すみません」
「ネズさんてば、わたしがいないとだめなんだから」
「……そう、ですね」
「あとはわたしがやりますね。あの子見ててくれますか?」
「……はい」
 うあ、とか、ふにゃ、とか訳の分からないことを喚く赤子を抱き、見様見真似であやしてみる。果たしてこれは本当におれたちの子どもなのだろうか。そうでなければ――そうでなければ、どんなに幸せだろう。例えば友人の子どもを預かっているだけで、あと一週間もすればいなくなるとか、そうであればおれはこんなに苦しくないのに。
「もうちょっと大きくなったらネズさんの曲を聞かせてみましょう」
 からかうような台詞に苦笑いし、そして触れられたところがどきどきした。
 彼女はおれが怪我をしたら手を握ってくれる、おれに優しく微笑んでくれる、おれのことだけ見てくれる――おれは学んでしまった。
 だから皿を割って素足で踏んでみた。冷静に、でも皿を割ったことには怒りつつ処置してくれた。
 空き瓶で思い切り太腿を殴って痣を作ってみた。とても驚いて、そのあと湿布や塗り薬で手当てをしてくれた。
 わざと喧嘩を買って殴られてみた。泣きそうな顔で介抱してくれた。
 おれは味を占めてどんどん身体に傷を増やした。服で隠れる範囲で、と最初は考えていたのに、そのうち首や腕など隠せないところまでぼろぼろになってきた。彼女の心配する顔がとても好きだった。おれのことだけ見ている瞳が欲しかった。暖かい手が、思いやりに溢れた声音が、本当に嬉しかった。それらを思い出しては毎晩自らを慰めた。
「最近ちょっと、疲れてますか?」
 ココアを入れてくれた彼女が言葉を選びながら話しかけてきた。答えようとしたら殴られて切れた唇がちりりと痛んだ。
「そんなこと、ないですよ」
「だって……あの、お父さんになったんだから、もうちょっと……ちゃんとして、ほしいなって」
「……え?」
 ちゃんとしろ。母親に言われたことがある。どんなにきちんとした成績を残してもあの人は無関心で、ただ「ちゃんとしろ」と言うだけだった。母親とは、皆同じことを言うものなのか? そんなの間違ってる。彼女は彼女であって、母親ではないのに。
「……喧嘩とか、あんまり、よくない、です。お父さんなんだから……」
 あちこちが痛む身体を動かし、彼女の肩を掴む。
「どうしてそんなこと言うんですか」
 おれは一体、どんな顔をしているだろう。
「おれは"お父さん"じゃないし、お前も母親じゃないでしょう、おれはおれだし、お前はお前ですよね」
「ど、うしたんですか」
「お前はおれだけ見てればいいのに、どうして、」
「いや、いやです、ネズさん怖い」
 ぎりぎり、爪が白い皮膚に食い込む。
「だってこうしないとお前はおれを見てくれないじゃないですか、おれは寂しくて、おれは」
 抱いていた羨ましさが腹の中で次第に膨張し、そして憎しみになって溢れ出てきた。こいつさえいなければふたりでベッドにいたのに。こいつさえいなければ、おれは、
「ネズさん、っ、手離して!」
 向こうで赤子がけたたましく泣き始めた。でもおれは離さない。唇から血が流れてきたのが分かった。ああ、これでまた触れてもらえる。優しく微笑んでもらえる。口元が歪んだ。
「……また血が出てきちまったんで手当てしてくれますか?」
 手を離す。彼女は怯えた顔つきで後退りし、そのまままっすぐ子供部屋に消えて行った。握ってもらえると思っていた手が宙ぶらりんになる。
 がくりと膝をついてその場に頽れた。床に血が滴る。
 ただ一言、大丈夫ですよと笑ってほしかっただけなのに。ただ、愛された実感がほしかっただけなのに。いつまで経っても、おれは上手く生きられない。
 がり、爪を噛んだ。治りきっていなかった傷が開いて血が滲んだ。

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