明日はいわゆる記念日。 おれとこいつが出会ってから丸一年。 思い出せるだけで何度も喧嘩したし、何度も拗ねられたし、何度も謝った。いつも謝るのはおれ。おれだけ。別に不満はない。おれが「すみません」と、それさえ言えば彼女の機嫌はたちまち良くなるのだから安いものだ。原因がおれでなかったとしても。 「ねー、明日ってなにか考えてる?」 テーブルにごろんと伸び、上目遣いでこちらを見る。一年ほぼ毎日顔を合わせていても、やっぱり可愛いなと思う。そもそもおれの一目惚れだ。くるんと上を向いた睫毛、ビー玉みたいな瞳、癖っ毛、小さい唇、どれも奇跡的なバランスですぐに目を奪われた。 「初めて出会ったときのことを覚えてますか」 「うん。ライブ」 「同じところで同じバンドがライブするので行きましょう」 「あれ、知らなかった。チケットとれるの?」 「もらいました」 「え、じゃあ関係者席じゃん」 「いやですか?」 ごろん、顔の向きを変えてまたこちらを見る。あどけなくて可愛らしい。 「だってネズくんと出会ったのは下のフロアだもん」 一年前、冬の日、大して売れてないパンクバンド、港近くのライブハウス。いまでもきちんと思い出せる。あの日おれは本当にただの気まぐれであのライブハウスに寄った。寒かったのでとりあえずどこかに入りたかったのだ。客は身内しかいないのではないかと思えるほどに少なくて、すぐに後悔した。 「ボーカルがすぐ見つけてうわー!ネズだー!って言われたよね」 「……そうでしたっけ」 「あれ? 覚えてない? ネズくんが階段降りてきてすぐのときだよ」 「……覚えてないですね」 とぼけているわけではない。本当に記憶になかった。たぶんドリンクを引き換えていたかなにかで、意識していなかったのだろう。 「そしたらお客さんがざわざわしてさ、みんなすぐネズくん探し始めて」 「探すほど人はいなかったでしょうよ」 「うん、だからすぐ分かった」 「目、合いましたよね」 「そんなことは覚えてんだ、変なの」 忘れるはずがない。客が一斉に振り向いたそのなかに、こいつはいた。好奇心に満ちたオーディエンスの目と明らかに違う目をしていたのですぐに目についた。「つまんない」「どうでもいい」そんな顔をしていた。頬を膨らませ、歌が中断されたことに不満げだった。 「だってわたしあのバンド好きなんだよ!」 「そりゃどうもすみませんでした」 いつもこいつがするように少し拗ねてみる。唇を尖らせると眉を顰められた。 「それわたしの真似?」 どう答えても機嫌を損ねそうだったのでただ肩を竦める。 「せっかく好きな曲演ってたのに! ネズくんが邪魔しちゃうんだもん」 「邪魔したわけじゃ……」 「思い出したら腹立ってきた!」 まずい、どんどん声が大きくなってきた。よく一年も前のことでこんなに怒れるものだ。少し感心してしまう。 「すみません。とにかく」 いつも通り謝って、やや強引に話を進めようとする。「パスさえあれば関係者席でなくても観られるので明日は行きましょう」ふん、と鼻を鳴らして「分かった」と意外と簡単に引き下がってくれた。記念日前に喧嘩なんて洒落にならない。内心冷や汗をかきながらもおれは冷静を装う。 「懐かしいなあ、もう一年も前なんだ」 温くなった紅茶をひと啜り。 「あのライブ凄かったよね」 「そう、でしたっけ」 「え、だって途中でベースとボーカルが大喧嘩し始めたじゃん。ネズくんそのときにはもういたはずだよ」 「……そうでしたっけ?」 「なんで覚えてないの? わたしそれ見て泣いちゃってさ」 ああ、それならよく覚えている。悲鳴をあげて大慌ててでフロアを行ったり来たりしていた彼女。聞き取れなかったがステージに向かって一生懸命なにか叫んでいた気がする。ぴょんぴょん飛び跳ねるたびに揺れる髪が、ライトに煌めいてとても綺麗だった。 「……ほんっと変なことは覚えてるね」 話しているうちに自分がどれだけ騒いでいたのか思い出したようで僅かに赤面して咳払い。 「喧嘩したまんま終わっちゃったんだよ。ボーカルが口利かなくなっちゃってそのまま帰ったの」 「確かに変な捌け方でしたね。そういうことだったんですか」 「嘘でしょ、なにも覚えてないじゃん」 「覚えてますよ。それでいきなり明転して、お前がぼんやり突っ立ってて全然動かないから声かけたんです」 「……そうだっけ」 ざわつくフロア、ぽかんと口を開けたまま動かない女、幾人かがおれに声をかけてくるなか、茫然と立ち尽くす女、忘れない。 「大丈夫ですか?って声かけたんですけど覚えてますか?」 「うーん、なんとなく……たぶん大丈夫じゃなかったと思う」 「そうです。お前は大丈夫に見えるかといきなりキレました」 「それ盛ってない?」 「なにも覚えてねぇのはそっちじゃないですか」 「だって一年も前のことなんだもーん!」 テーブルの下で脚をじたばたさせているのが伝わる。五歳児みたいだ。 おれはその後の顛末を話して聞かせる。大泣きしながらキレられたのでとにかく泣き止むまでその場でいろんな話をしたこと。周りの視線が痛かったので恰も初めから連れだったかのように一緒にライブハウスを出たこと。適当な居酒屋に入って個室で延々とあのバンドの良さを語られたこと――その時に語られた内容については一切覚えていないことは黙っておいた。 「なんでそんなこと覚えてんの?」 「むしろ忘れますか?」 「喧嘩のインパクトが強くて……」 「おれはお前のインパクトが凄すぎてあとは全部吹っ飛んでますけど」 む、と唇を尖らせる。さっきおれがしてみせた表情。 「なんかその言い方だとわたしが非常識なやつみたい」 「い、」 いや、そうでしょう、と言いかけて口を噤む。初対面の人間にキレ散らかして酒を奢らせて家まで送らせるなんて常識があったらやらない。 「……すみません」 喉元まで出かかった反論を読み込んで謝った。 「ネズくんは記憶力がいいなあ」 長い睫毛を瞬かせてじいっとおれを眺める。おれは柄にもなくどきりとしてしまって目を逸らした。 だって、忘れませんよ。あの日お前に一目惚れしてステージ上のパフォーマンスもそっちのけでお前しか見てなかったんですから。あのとき演奏された曲はひとつも覚えていないけれど、お前がどんなピアスをつけていたかは言えます。知らないでしょう、おれはあの「つまんない」という目に射抜かれて、お前の横顔しか見られなくなっていたこと。 などと話せるはずもなく「まあ、楽しかったので」と曖昧に返事した。 「それ馬鹿にしてない?」 また不機嫌スイッチが入りそうになる。困った。一年も経つのに全く地雷が分からない。 「そもそもあの喧嘩の原因、ネズくんだからね」 「え? それは知りませんでした」 「なんで? あんなに名前連呼されてたのに! ていうかあれからライブしなくなっちゃってアルバムも出ないんだよ」 やばい、スイッチが入った。 「解散してないけどもう解散してるみたいなもんなんだよ! わたしずっと追っかけてたのに! ライブ楽しかったのに」 「……す、すみません」 絶対におれは悪くないのに圧に負けてまたまた謝ってしまう。 「初めてあんなに好きになったバンドだったのに! もう二度と聞けないかもしれないんだよ!」 「あの、」 「あー! 懐かしいなー! 去年に帰りたいなー!」 「だから、」 「ネズくんが来なかったらまだ活動してたのになー!」 「……明日、そのバンドのライブなんですが」 「だからさあ……あれ? え?」 きょとん。 「ん?」 自分で話していておかしいと気づいたようだ。おれは先週もらったフライヤーを引っ張り出してテーブルに載せる。バンド名と大きな〈仲直り!〉というロゴ、それからメンバーの写真と場所と日付だけが書かれたシンプルなデザイン。 「……うおお」 きっと言いたいことはたくさんあるのだろうが、彼女が発した言葉はそんな意味のないものだった。 「……うおー」 まだなにを話したらいいのか分からないらしい。言葉を覚えたての子どものようでおかしいが笑いたいのを堪える。 「……ありがとう?」 ようやく出てきたのは疑問符のついた礼だった。難しい顔をして小首を傾げ、おれを見つめる。可愛いな、とまた思った。 「楽しみ、だね」 「そうですね」 「あの、ごめんね」 「……んぇ?」 とても間抜けな声が出た。 驚いた、彼女が謝るのは初めてじゃないか。きっとおれは目を見開いて呆気にとられている。 「もう言わない」 ふいっと顔を背ける彼女の耳は真っ赤で、やっぱり子供のようだ。 唇をつんと尖らせたその横顔はおれが一目惚れしたあの顔のままで、たぶんおれは明日もこいつの顔しか見ないんだと思う。それでライブの感想を求められてなにも言えなくて「なにも覚えてないじゃん!」と文句を言われるんだろう。いつも通りおれが「すみません」と謝って終わり。なにもない日々と変わらない記念日だ。それもいい、それでいい、おれたちはきっとこのままで幸せだ。 - - - - - - - |