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さよならはもういわない

 

 どれだけ頭を空っぽにしていてもふとした瞬間に嫌な記憶が蘇る。この場所に来るといつもそうだ。歌っていてもギターを弾いていても、絶えずあいつの顔が視界の隅にちらつく気がする。半年前の、唇を歪ませて涙を必死に堪えるあの顔が。結局大泣きしてめちゃくちゃになったあの顔が。
 思い出すといまでも胸が騒めく。おれは一切悪くないのに、あいつは何故だか罪悪感を抱かせるのが得意だった。短躯を縮こまらせ、おどおどと上目遣いにこちらを伺うのがうまかった。恐らく意図せず、そうあるものとして当然にように振る舞っていたのだ。守ってやらねばと思わせる、雛のような女だった。油断すると「おれ以外の男と頻繁に寝ていた」ことさえ忘れさせた。だからおれは最後には目を見ず黙って去った。
 ここを最後の場所にするのは本意ではなかった。滅多に足を踏み入れないところならまだしも、練習やリハで毎週訪れるスペースだ。その度にあいつを思い出すのは本当にやり切れなかった。恐らくこれが未練というやつだ。
 冷たい風が吹く。冬が大きな足音を立ててやって来ていた。いつものジャケット一枚で少し肌寒い。とっとと帰ればいいのだが練習が上手くいった余韻から抜け出せず、その場で段差に座り込んで煙草に火をつけた。マッチに点いたか弱い炎が一瞬だけ周りを暖かくして、またひゅうと吹いた風に流れて消える。そういえば、煙草はやめろと何度も説教されたっけ。いつも生返事をしてまともに聞いていなかった。ここのところ喫煙量が増えたからそろそろセーブすべきだろうか。そうしたらきっと今度は酒の量が増えるに違いない。
 色々と考えながら肺いっぱいに煙を吸い込んでいると、ざ、と小石を踏む音がした。反射的に顔をそちらに向ける。錆びた街灯がほんのりと照らすピンクのなか、あいつの顔が浮かび上がった。
「……久しぶり」
 何度も瞬きをする。確かにあいつだった。
「ライブ近いから、ここで練習してるかなって」
 こんなに意識がはっきりしているのだから、これは夢や幻ではない。半年前に捨てた女がこちらに近づいてきていた。暗闇に溶けるような黒い服に身を包んだあいつが、ぎこちなく笑っていた。
「……お、覚えてる?」
 下手くそなジョークだ。おれは答えず、また深く息を吸い、思いきり吐く。困った顔の女はその場で立ち止まり視線をあちらこちらにやっていた。その目だ。こちらに罪悪感を抱かせる、潤んだ目。またその目をおれに向けにきたのか。
「ライブは明後日ですよ」
 つまらないジョークを返した。胸のざわつきを悟られないよう、必死に押し込める。顔に出ていないことを望むばかりだ。
「ネズに会いにきた」
「へえ、サインでも欲しいですか」
「違うよ……あの、わたしたち、やり直さない?」
 弱々しい言葉がぽつりぽつりと落とされる。冷たい風に攫われそうなデクレッシェンド。
「……お前のせいでなにもかも終わったのに、よくそんなこと平気な顔でいえますね」
 平気な顔でないことは一目見れば分かるが、とにかくおれはそんなことしかいえなかった。動揺、不安、期待――様々な感情が綯い交ぜになって、嫌味として口から飛び出た。そしてそれは辛辣な言葉ではあったが決して嘘ではなかった。
 案の定、女はどんどん泣きそうな顔になってゆく。半年前にも見た顔だ。こびりついて離れない顔だ。
「わたしが、悪かったから、本当にごめんなさい」
「そんなの前にも聞きました」
 少しばかり手が震えていることに気づき、チョーカーを握りしめてそれに耐える。
 この震える手も脚も唇も、すべてこいつを覚えている。何度もキスをした、何度も抱きしめた、何度もセックスした。そんな身体が、混乱している気持ちとは裏腹にあいつを求め始めている。おれ以外に汚された身体だと分かっているのに、手を伸ばしてしまいそうになる。
「でも、わたし、やっぱりネズが好き、なんだ」
 最後の方は聞かせるつもりがないのかと思えるほどの小声だった。
「アンコールはないって、言いましたよね」
「そう、だよね。ネズには、アンコールなんてないって、知ってる、分かってるよ」
 目の前で震える小さい身体を抱きしめたくなる。やめろ、やめてくれ、それ以上おれを刺激しないでくれ。この身体はいますぐお前を欲しがってしまう。結局忘れられなかった惨めなおれを暴かれたくない。おれが不機嫌そうな表情を保っている間に去ってくれ。好きだといわれたことに喜んでしまう。
「あの、でもさ、もしよかったら、えっと、身体だけでもいいから、さ」
 それでもいいから傍にいたいな、なんて。
 涙の滲んだ目で、きっと勇気を振り絞っていったその言葉は、おれの心をまるで見透かしているようだった。
「……いいですよ。身体だけなら貸してあげます」
 たっぷり悩んだあと、おれはできるだけ冷たく返事をした。情があると思われたくなかった。
 新しい一本に火をつけながら「うち、来ます?」と声をかける。既に半分以上灰になっていた煙草は踵で潰した。
 おれはたぶん、二度とこの女に愛を囁かないし、おれ以外の男と寝ていても文句はいわない。
 最初から気持ちがなければ引き裂かれることもないのだ。身体だけの関係ならなにも悲しくならない。内に燻る火種を吐き出すだけなら丁度いい。
「……怒ってる?」
「上機嫌です」
 半年前には普通にそうしていたように、手を差し出す。一拍置いて、おずおずと指先が握られた。誰かと手を繋ぐなんて本当に久しぶりだ――この柔らかい指、派手なネイル、子供みたいな体温、全て覚えている。ここに確かにあった愛というものも、まだ覚えている。けれどネズには、おれにはアンコールは決してあり得ない。だからこれは愛とは違う、都合がいいだけの関係。おれにも、こいつにも。

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