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誰のことを一番愛してる?



――おれには、あいつがいますから。
 あの言葉が脳内でリフレインされる。
 回数なんてわからない。無我夢中で何度も腕を振り下ろした。その度に赤黒い液体が服や顔を濡らして、嗅いだことのないにおいがした。生々しくて、でも意外とグロテスクではないにおい。きっと肉屋が動物を解体するときもこんな感じだ。最後に突き立てた刃は喉元に刺さって、それでわたしも相手も動きを止めた。僅かに痙攣していた指先や頬はもう蝋のように白くなり、わたしは反対に顔が高揚している。はあ、はあ、と全力疾走したあとみたいに息が荒くなっていた。
 憎くて、憎くて、憎くて、憎かった。
 ネズに愛されているこの髪がこの唇がこの喉がこの胸がこの腹がこの腕がこの腰がこの脚が憎かった。
 愛されていたその全てが血塗れの無残な姿に成り果てて、わたしはやっと一息つく。それらは愛されていた。かつて。わたしの手にかかるまでは。もはや過去のこと。過去のもの。
 過去になった女を見下ろしながらネズに電話をかける。「ねえ、すぐ来てくれない?」用件は言わない。「分かりました」いつもの調子でネズは二つ返事。数十分もすればめちゃくちゃになった恋人を見てしまうのに。
 血に濡れたままの指で煙草を挟む。体内に入ってはいけないので口の周りに飛び散った分は袖で拭った。そのとき初めて自分が鼻血を出していることに気づいた。そういえば抵抗されたときに顔を殴られたっけ。全然痛くなかったな。気がついた途端に鼻先がじわじわと痛み始めてきた。泣きそうなくらい。痛い、痛い、こんなひどいことをするなんて、わたしはなにもしてないのに。ただお前を過去のものにしただけなのに。我慢できなくなって大泣きしながら煙草の先に火をつけた。肺一杯に煙を吸い込む。慣れた味がして、ようやく意識がはっきりする。
〈なにか要るものありますか?〉
 ネズからメッセージがきた。コンビニにでも寄っているのだろう。少し考えて、頬についた乾いた血が痛むので拭き取るために〈ウェットテッシュとお水〉と返事をした。送ってから、シャワーを浴びればいいな、と思った。というより浴びた方がいいのだ。こんなひどい顔でネズに会うなんて考えられない。急に恥ずかしくなって、でもそうすると彼が来るのにもう間に合わなくなってしまうので、大慌てで乱れた服を直したり前髪を整えたりした。いつも使っている鏡にも血が飛び散っていた。
 玄関のチャイムが鳴り、急いでドアを開けに走る。「鍵、開けてる」「無用心ですよ」いつのも会話がやけにおかしい。泣いていたせいで鼻がぐすぐすする。「風邪ですか?」がちゃりとドアが開いて、少しだけ心配そうにネズが尋ねた。そしてわたしの顔を見て「……なに、してたんですか」と掠れた声で質問を重ねた。
「なに、してたっけ、えっとね」
 分かりやすく説明しようとして言葉に詰まる。するとネズはわたしの腕を掴み、真っ直ぐにあいつの横たわっている部屋に向かった。
 どさ、と彼が買ってきたものが落ちる音がした。
「ええとね、あはは」
 きっと、取り乱してわたしを罵るだろうと思った。だから少しでも言い訳しようと言葉を探す。ちょっとテンション上がっちゃって、こいつが嫌いで、憎くて、憎くて、憎くて――
 ネズが振り返って、腕を大きく動かした。殴られる、と感じて身を竦める。反射的に目をギュッと瞑ったら、唇に冷たいものが押しつけられた。
「ったく、もう」
「ん、む」
 なにかと思えば買ってきてもらったウェットティッシュで唇を拭われていただけだった。「ひでぇ顔だと思ったらそういうことでしたか」と、まるで保護者のような物言いをしながらちょっと乱暴な手つきのまま顔中を綺麗にされる。
「ちょ、ちょっと待って」
 慌ててその合間を縫って話しかけた。
「ほかになにか言うことあるでしょ」
「例えば?」
「あ、え、」
「なんて言ってほしいんです?」
 それはたくさんある。いままでこの女に言ってきたどんなことよりも甘い言葉を囁いてほしい、悪い言葉で唆してほしい。でも、いま欲しい言葉は、
「……え、と、褒めてほしい、な」
 たぶん、わたしを認めてほしい。こんなことをしでかしてしまった愚かなどうしようもない女を。
 ネズは目を細めて「よくできました」と言った。それは呆れたような、眩しいものを見るような、なんだかよく分からない目だった。少なくとも、恋人が目の前でめちゃくちゃになっているのを見たばかりの顔ではなかった。
「本当に、よくできました」
「……怒らないの?」
「どうしてです?」
 質問に質問で返されるとあたふたしてしまう。「え、と」目元をごしごしと拭われながら言葉を探し続ける。「だってわたし」ネズが愛してたやつを「わたし、」ぼろぼろに「し、」
「――いいんです、どうせ別れるつもりだったので」
 ネズはそう言って笑った。
 笑った。
「本当ですよ」
 まだ笑っている。
「なかなか別れてくれねぇせいで苦労してたんです」
 だから、
「よくできました」
 大きい手が頭を撫ぜる。そのあと「血まみれじゃキスしてあげられねぇでしょう」と柔らかい声でネズは言った。泣いている赤子をあやすような優しい顔で、ネズはキスをくれた。鼻の頭がつんと痛む。「ご褒美です」――ああ違う、そんな言葉が欲しいんじゃない。わたしは愛してほしくて、いちばんになりたくて、だから、好きって言って、
「これでおれも共犯者ですね」
 違うのに、違うのに、並びたいんじゃない、いちばんになりたいのに。大切にしてほしいのに。愛してほしいのに。それだけなのに。好きって、愛してるって、わたしは。
 なにもかも言葉にならなくて、またわたしは泣き出す。ネズは困った顔で背中を撫でてくれた。
 いまになって分かった。わたしは、あいつが憎くて憎くて憎くて憎くて――羨ましかったのだ。どうしようもないくらい。
 好きって言って、ねえ、こんなにしたんだから、いちばんにして。
「おれがいるから、大丈夫ですよ」
 そんな言葉を聞きたいんじゃないのに、こんな風にしてしまったのは全部わたしだ。
 やってしまったことの重さが今更肩に重くのしかかる。なにも大丈夫じゃない、こんなの。もうどうしたってネズの恋人にはなれない。
「ネズ、好き」
 ようやく絞り出した声は情けないくらい震えていた。
「そんなの、知ってます」
 ネズは困った顔のまま笑った。
 違う、聞きたいのはその言葉じゃない。「おれもです」って返事してほしかった。違う、違う、と譫言のように繰り返しながらしゃくりあげるわたしを抱きしめるネズの腕はいやに暖かかった。

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