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パルテノン銀座通り



 強い日差しがうなじをちりちりと灼く。もう夏はとっくに去ったと思っていたのに。腕時計をちらりと見る。約束の時間はとっくに過ぎている。一時間かそれ以上は待っていた。せめて陰に入ろうと周囲を見渡すと、ずっと向こうに手を振りながらこちらに走ってくる彼女の姿があった。随分危なっかしい足つきだ。いまにこけて膝をすりむくに違いない。そして「えへへ」と笑って当たり前のようにおれに手当てさせるのだ。絆創膏を持ち歩くようになったのは、彼女のせいだった。
「お待たせ」
 ところが彼女は立派におれの元まで走ってきた。「えへへ」この笑いは遅刻をごまかしているもの。「起きたら約束の時間だった」そんなの、何度目ですか、いい加減大人なんだからきちんとしてください。
 だけれどおれはそんな彼女をとても好ましく思っていた。何度も同じ場所で、何度も同じ理由で遅刻して、何度も似たような笑顔を浮かべる。
 おれたちは時々こうやって恋人になって約束された時間を楽しむ。習っていないダンスを見様見真似で踊るように、きっと恋人同士でするであろうことを楽しむ。手を繋いで、同じテンポで歩いて、キスをすることもある。難しいことはひとつもない、簡単なこともひとつもない。どこかぎこちなく、きっとこれが正解だろうと模索しながら踊る。
 今日はどこへ行こうか、どこにだって行ける、おれたちは縛られた存在ではないから。友達でも恋人でもない、約束だけある関係だから。
 彼女は僅かに逡巡して、それからここから少し遠いところにあるカフェの名を出した。「そこのパフェがすごくおいしいんだって」地図で場所を確かめる。丁寧にレビューも読みながら「行こ?」と反論させない口調でおれに提案した。この暑い中に二十分も歩くのは少しばかり苦痛だと思ったが恋人なら当然受け入れるだろう。だからおれは「もちろん」とできるだけ優しく応える。その返事に満足した彼女はしなやかな腕をおれの右腕に絡める。そして恋人のように甘えた声で「えへへ」と笑った。その「えへへ」にとても弱いおれは思わず口元を綻ばせてしまう。
 彼女が隣にいて、おれに甘えていて、こうしていることがとても嬉しい。陽射しが暑くても彼女が遅刻してきても、そんなことはどうでもいいくらい、見境なく、この時間が続けばいいのにと願うだけ。
 見慣れた道を歩きながら、いつもと同じような何度も聞いたような話をする。退屈でどうでもいい話。でもそれは彼女が喋ることで「退屈でどうでもいい話」ではなくなってしまい、おれは適切な相槌を打ちつつにこやかに聴く。時折意見を求められると彼女がいちばん喜ぶようなことを言う。「そうだよね、ネズくんもそう思うよね」思ってなくったって「そうですね」と同調する。うまく踊るために。
 二十分と少しかけてたどり着いたカフェは三十分待ち。おれたちは楽しく踊っていた足を止めて戸惑う。「どーしよ」人を待たせるのは平気なくせに自分が待つのは嫌いな彼女は腕を組んで顔をしかめた。「お前に任せます」もういくら待たされたところでなにも変わらない。とにかく座れるならどこでもいいと思った。
「じゃあ待とうか。三十分なんて、喋ってたらすぐだよ」
 たぶんね、と名前を記入しながら彼女は笑った。「えへへ」同じ笑顔。背もたれのない椅子に並びあって座り、メニューを覗き込む。彼女が目当てにしているパフェは「人気ナンバーワン」のものだった。「ネズくんはなににする?」「アイスティーだけでいいです」「それならわたしの一口あげるね」肩を寄せ合う。「えへへ」嬉しくて楽しくて仕方ないという笑顔。
「あの……」
 後ろから遠慮がちに声がかけられた。振り向くと見知らぬ女性二人組がこちらを見ている。「ネズさん、ですか?」背の低い方が上目がちにおれに尋ねる。「そうですよ」「なんでお前が返事するんですか」「えへへ」もうひとりが「あの、わたしたちネズさんの大ファンです」と消え入りそうな声でいう。
「し、試合全部見てます」
「ライブも行ってます」
「ありがとうございます、嬉しいです」
 握手でもしようと手を差し出す。
「こ、恋人さんですか……?」
 ふたりのどちらもその手を取らず、メニューを食い入るように見ている彼女の方を伺い問いかけた。彼女は聞いちゃいない。
「おふたりでお待ちのお客様」
「あ、わたしたちだよ! 行こう」
 どうとも答えられずにいると腕が引っ張られ、あっという間にファンシーな空間に引き摺り込まれた。「このパフェとアイスティーください!」やっと目的が果たされようとしている彼女は生き生きとして見えた。
 さっきの二人組の問いかけがちくちくと胸の辺りを刺している。
「――さっき、恋人かって訊かれました」
 俯いて、できるだけ小さい声で言った。聞こえても聞こえていなくてもどっちでもいいように。
「恋人だったら良かったのにね」
 えへへ。
 自分から話したくせに、おれはそれにどうやって返事すればいいか分からなかった。顔を上げられない。
「そ、うですね」
 やっと絞り出した言葉はとても頼りなく、なんの解決にもならないものだった。言うんじゃなかった。せっかくうまく踊れていたのに台無しにしてしまった。全部おれのせいだ。
 俯いたまま、運ばれてきたアイスティーをじいっと見る。うすぼんやりおれの顔が映っている。よく磨いたスプーンには彼女の顔が映っていた。歪曲した逆さまの顔。
 沈黙を破ったのは彼女の方だった。
「ここ可愛いね」
 気に入ったようだ。恐らくこれから何度もまたここに来ることになるのだろう。
 そうやってきっとまた同じ場所で待ち合わせして、同じように遅刻して、えへへと笑って、おれたちは腕を組んでここを目指す。恋人のように。
 恋人にならない理由はないし、なる理由も見当たらない。それでも何度も同じことを繰り返せるなら、それが幸せだと思った。彼女が走って躓いた先にいるのがおれなら、それでいい。えへへと笑って一言も謝らず腕を絡ませる。恋人のように。

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