なにに悩んでいるかも忘れてしまうくらい塞ぎ込んでいた。暗い部屋で、勝手にぱたぱた流れてくる涙を拭いもせずにベッドに潜り込んでいる。わたしはたまにこうなってしまって、そうするともう風呂も食事もままならなくなる。一月前にできたばかりの恋人とはあんなに毎日連絡し合っていたのに、ここのところ既読をつけるだけの機械と化してしまった。たまの返事は「うん」「はい」。もちろん彼はそんなわたしを心配して電話をかけてくるのだが出られるような心の余裕はない。ただ、泣いている。――本当は、悩んでいるというのは言い訳で、ただ鬱屈しているだけなのだ。だからなにかが解ければこの鬱が晴れるわけでもない。待つだけ。ひたすら。泣きながら。 惰性でスマホをいじっているとピンポンと来客を告げるチャイムが鳴った。通販はなにも頼んでいない。きっと営業かなにかだ。わたしが泣くのを邪魔しないでほしい。さらに身体を丸めてチャイムを無視する。 〈オレだよ〉 ちょうどその時、ダンデからメッセージが届いた。 困る。真っ先にそう思った。ゴミを捨ててない、服も散らかしている。髪も乱れて大変なことになっている。なにより、さっき起きたばかりだ。ずっと泣いていたので目も腫れているし、とにかく、なにもいいことがない。 ピンポン。またチャイムが鳴った。 数時間前にコンビニに行ったっきりずっと横になっていた身体をなんとかして縦にする。ペットボトルや部屋着で足の踏み場もない床をなんとか歩いて玄関まで彼を迎えに行く。 「……ひどい顔だ」 とても、眩しい。ずっと昼夜逆転の生活をしていたから陽の光を久しぶりに浴びた。逆光で表情が分からないがきっとダンデは渋い顔をしている。 「ごめん」 なんとなく謝った。他に言葉が思いつかなかった。 「入ってもいいか?」 「……汚いよ」 「そうか、じゃあやめておこう」 これ、とダンデは右腕を差し出した。チェーンを外してそれを受け取る。ゼリーや飲料水が入っているコンビニ袋だった「ありがと」小さくお礼を言う。なんて優しい人だろう。どうしてこんな人がわたしの恋人なのだろう。 「あー……服を着てほしいな」 目を逸らしながらわたしの下半身を指差す。慌てて学生時代のジャージを履いた。本当に、どこまでも最悪だ。これ以上最低なことってなかなかないかもしれない。ついでに鏡で自分の顔を久しぶりに見てみた。死人みたいな顔色だった。 「元気なら、ちょっと散歩しよう」 わたしの様子から風邪引きではないと判断したようだ。それは正しい。正しいが、その提案にすぐ頷けるほどわたしは元気ではなかった。ああ、うん、まあ、とか適当な返事をして、もじもじと髪をいじる。 「いい天気なんだ」 ギィ、とドアが大きく開く。また陽の光が差し込んでくる。ダンデが手を差し伸べた。日に焼けた逞しい腕。わたしを抱き締める優しい腕。大きな掌。大好き。ふらふらとその手を取って、靴紐の緩んだスポーツシューズを履く。それを見たダンデはわざわざ屈んで靴紐をギュッと固く結んでくれた。 「どこ行くの?」 「さあ、考えてないよ」 散歩して楽しいような道はこの辺にはない。坂道だらけのつまらない通りだ。 「だけどさ、ここにいるよりはいいだろう?」 に、と白い歯が光った。 靴紐と同じようにギュッと固く手を繋いで外に飛び出す。眩しい。少し目蓋を下ろし、ゆっくり目を開いた。ダンデがにこにことわたしを眺めていた。 ふわりと暖かい香りが鼻を擽る。ああこれは、知っている、太陽の匂いだ。晴れの日の、なんでもうまくいきそうな日の匂いだ。 上を向く。嘘みたいに綺麗な水色の空に油絵具を載せたみたいな白い雲が浮いている。こんなの、どれくらい振りに見たんだろう。少し雲の流れが早くて、わたしはそれをじいっと見ていた。 「ねえ、あの雲、うさぎみたいだね」 なんて、つい思ったことがそのまま口に出た。ダンデもわたしと同じように上を向いて「本当だ、あの雲だな」と遠くを指さした。 「じゃああの雲を追いかけようか」 え、と聞き返す前にダンデは早足で歩み出した。長い脚がテンポよく動く。わたしは彼を引き留めもせずそのままついていっている。 「道は君が覚えていてくれ。暗くなる前には帰ろう」 てくてく、とことこ、すたすた。きちんとした歩幅でダンデはまっすぐ歩く。この先は坂道。いつも避けて通る道。疲れてしまうから。違う道を、と立ち止まろうとしてもぐいと腕を引っ張られてしまう。 「はは、本当になにもないなあ、ここは」 「だから言ったのに」 いや、言ってないか。 ダンデの長い髪が風になびく。ふわり、暖かい匂いが一層強くなる。 ――そっか、そうだね、ダンデからは太陽の匂いがするんだ。根拠もないのに、なんだってうまくいきそうな気になる、そんな匂い。 涙の乾いた跡が少しひりひりして痛いけど、歩みはだんだん軽くなってくる。坂道でも気にならない。 「なんとかなるんだよ」 ダンデはわたしに語りかけた。「なんとかなるけど、ああやって篭ってちゃ分からなくなるだろう?」 「……そうだね」 「お、やっと笑顔になった」 太陽の匂いがする優しい人が笑った。 あんなに嫌いだった坂道をわたしは歩いている。うさぎを追いかけながら。 追っかけ終わったら、どうしようか。きっとふたりで迷子になってて、地図を見ながら一生懸命帰るんだよ。それでまたふたりで笑うんだ。とにかくうさぎから離れようなんて言って、また全然違うところに着いちゃうんだ。だけど最初から目的のない散歩なんだから、それが正解なんだよ。――なんだ、やっぱりわたしのどんよりした気持ちには正解があったんだね。 - - - - - - - |