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裏R/EC



「帰らなくちゃ」
 ふと目を覚ました彼女が慌てたように言う。
 午前二時、終電なんてとっくにない。
 ふたりして酔いつぶれたのが日付が変わる頃で、確か一度合意の上でセックスして泥のように寝ていたのだ。頭を整理しながら煙草に火をつける。「帰らなくちゃ」もう一度、今度はおれの顔を見て言った。
「……ここどこ?」
「さあ? 適当に入ったので分かりません」
「ネズくんの家じゃ……ないね」
 なんだ、そんなことも分からないくらい酔ってたのか。それならセックスしたことも忘れてるかもしれないな。裸のままシーツから抜け出して小さい冷蔵庫から炭酸水を取り出す。彼女はぼうっとした顔をしていたが、それでようやく今自分がどういう状況にあるか気づいたようだった。
「言っときますが、おれは強姦はしてないですからね」
「うん……」
 さっきから言葉が頼りない。彼女は震えているように見える腕を伸ばし、ベッドサイドのスマホを手に取る。「……ど、うしよ」「宿泊で部屋は取ってあるので始発で帰ればいいんじゃないですか」我ながら能天気な答えだと思う。どうせ明日は休日だ.
「ダンデからめちゃくちゃメッセージきてる……」
「あ」
 そういえば、
「お前、ダンデと付き合ってるんでしたっけ」
 完全に頭から抜けていた。はは、と笑えば睨みつけられた。
 ディスプレイを覗き込む。
〈今日遅いのか?〉
〈いまどこだ?〉
〈応答なし〉
〈迎えに行く〉
〈電話くれ〉
 最後の連絡が三十分前。「おれと飲むって言ってないんですか?」「……言えないよ、こんな悪いこと」へえ、そりゃどうも。つまりおれとこうなるかもしれないと少しでも思ってくれてたんですね。光栄です。
「明日絶対に始発で帰るから、起こして」
 そう言って彼女は恐らくシャワーを浴びるためにベッドから降りた。横を通り過ぎる一瞬、ふたり分の匂いが鼻をかすめる。それに欲情して、今度は少しだけ乱暴にベッドに組み敷いた。彼女は驚いた顔をして、それから諦めたようにおれに身を委ねた。目の前の女に恋人がいるという事実がおれを昂らせる。罪悪感なんてまるでなさそうに喘ぐ彼女は、とても淫らで愛らしかった。
 疲れ果てた彼女が二度目の眠りにつくタイミングで、メッセージを受信する音が聞こえた。こっそり覗くと〈無事か?〉とまたダンデからだった。彼女はそれに返信せず、おれに背を向けて身体を丸めた。
 念のためおれのスマホを見ても彼からの連絡はなかった。そう、それでいい。今日のことなんて、なかったんだ。おれたちはセックスしなかった。一度も。
「ダンデによろしく」
 朝、去り際にそうやって声をかけた。「言えないよ」昨日と同じ台詞を呟き、彼女は電車に乗って帰って行った。おれたちはセックスしなかった。じゃあ夜通しどうしていたのかは、きっと彼女が一生懸命電車の中で考えている。せいぜい上手い嘘がつけるといいですね。煙草に火をつけながら、意地の悪い笑みが浮かんだ。
 セックスしなかったおれたちは、それから会うこともなかった。そういえばあの日どうしてふたりきりで飲んでいたのか覚えていない。どっちから誘ったのか、もう忘れてしまった。セックスしなかったことだけはきちんと記憶にある。しなかったことは大事なことなので。
「やあ、ネズ」
 試合終わりにロッカールームでチャンピオンに話しかけられた。さっきまでキバナと死闘を繰り広げていたとは思えないほど爽やかな笑顔だった。
「君とここで会うのは久しぶりだ」
「そうですね」
 タオルを渡す。ありがとう、とそれを受け取って、ダンデは汗を拭った。ああ、こいつはいつも眩しい。正しくて、健康的で、おれみたいに卑屈なところがない。いつまでも青春真っ只中みたいなやつだ。汗を拭う姿ひとつ取っても絵になる、嫌味な面をしやがって。
 おれ、お前の彼女とセックスしなかったんですよ。
 あの日、おれとお前の彼女はホテルでセックスしてなかったんです。
 お前が死ぬほど心配している間、彼女はなにをしていたんでしょうね――自分がどんな表情になっているか分からないが、きっと口元が歪んでいる。
「そうだ、ひとつ君に言いたかったんだ」
「はあ、なんですか」
「オレの恋人が世話になったね」
 一瞬、ロッカールームの空気が張り詰める。
「……どうも」
 反射的に、曖昧な返事が出た。おれと飲んでいたことは伝えたのかもしれない。ダンデにとってはそれくらいなら「悪いこと」ではないのかもしれない。
「あいつは少し酒癖が悪くて、オレも困ってるんだ」
「迷惑してませんから」
「そうか? ホテル代、全部出してくれただろう?」
「それくらいは――は?」
 耳を疑う。「ホテル代」ダンデは爽やかな笑顔のまま、丁寧に繰り返した。「ホテル代は君が出してくれたはずだ」思わず周りに他の人間がいないか確かめる。きちんとおれたちふたりだけだった。
「さすがに場所は選ぶよ」
 そんなおれの焦りを見透かしたのか、彼は声を上げて笑った。
「まあ、君がそれくらいは気にしないというならいいんだ。世話になったね、ありがとう」
 おれたちは、
「セックスしたんだろう?」
 あ、あ、あ、
「全く、あいつにも困ったものだ」
 今度はネズか、と独りごちる言葉を聞き逃せはしなかった。「今度は?」馬鹿みたいに鸚鵡返しするおれはさぞかし滑稽だろう。
「キバナもだよ」
 聴き馴染みのある名前が飛び出す。「今度から、メッセージに返信するように言っておいてくれ」まるで次があるかのような言い方。「そろそろ君のところに行くと思うから」じゃあ、と手を振って彼は部屋から出て行った。おれのタオルを持ったまま。
「待ってください」
 慌てて後を追う。「ああ、これ君のだったな。すまない」タオルを手渡されながら必死に考えを取り繕う。そんな「悪いこと」をどうして黙認しているのか、どうしておれにわざわざ伝えたのか、なぜ「悪いこと」を止めようとしないのか。言葉にならない。それでも顔には出ていたようだった。
「あれはどうしようもないんだ。なぜかはオレにも分からないし、多分彼女に聞いても分からないだろう。でも、絶対にオレのもとに帰ってくるんだ」
 帰巣本能だよ、とダンデは噛みしめるように言った。
「ポケモンと同じさ。どんなに迷子になっても、オレがいるところに帰ってくるんだよ、あいつは。オレと違ってな」
 最後の自虐に笑う余裕はなかった。ちょうど「今日の夜会える?」と彼女からメッセージが来たところだったから。おれたちは今夜「悪いこと」をするだろう。きっとこの爽やかな笑顔を思い出して、それでも合意の上でセックスする。
 ただもう、おれも彼女もダンデも、前のようななんでもない関係には戻れないのだ。二度と。

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