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地獄があふれて僕らが歩く



 初めて会ったのは確か半年前。スタジアムからの帰りに、声をかけられた。
「ネズくんだあ」
 キバナの恋人だというその女はガムを噛みながら大きなパーカーのポケットに両手を入れ、サイズの大きなカラコン越しにおれをにやにやと見ていた。さっきまで泣いていたみたいな腫れぼったい目をしていて、下手くそなメイクだなと思った。
 おれのファンなら握手なりサインなりそういうことを求められるだろうが彼女はそうではなかった。とても馴れ馴れしく話しかけ、けれどおれはそれを嫌だとは感じなかった。顔が良かったからだろう。我ながら現金なものだ。
 輪郭を隠すようにカットされた髪を細い指でくるくると弄りつつ、視線を手元のスマホに落とす。「あたし、キバナ待ってんだよね」メッセージを受信する音。時計を見やると彼の出番まではまだ数時間あるようだった。「中に入らないんですか」「キョーミないもん、ポケモン」仮にもジムリーダーのおれの前でよくそんなことが言える。おれは複雑な顔になっていたと思う。ぷ、と彼女は吹き出した。「ごめんね。でもポケモンもあたしにキョーミないと思う。懐かれたことないし」よく分からない理屈に曖昧に頷く。
 あと数時間もこんな薄寒い路上で待っているつもりか。問い掛ければ「そーだよ」と当たり前のようにゆっくりとした瞬き。よく見ると身長を十センチほど嵩増ししているごつい靴の横にはビールの缶がいくつも並んでいた。気づいた途端に甘い香水に混じるアルコールの香りが濃くなった気がした。
「風邪引きますよ」
「だってこうするしか知らないもん」
 声をかけられて会話した手前、放っておくわけにもいかないのがおれの性分だった。すぐそこのカフェに入ろうというと「あたし甘いものダメなんだよね」とそっぽを剥かれた。
「でもさ、時間もあるし行きたいところはあるんだ」
 に、と笑った彼女がおれの手をとって、それが全ての始まりで、終わりだった。
 おれはおれの意思で彼女について行った。いつの間にか、などと言い訳はしない。きちんと、しっかり、そうしたいと思って彼女とホテルに入った。まだ暗くもならない、子供たちが家路に着く頃の夕方に。ホテル代はおれが出した。初対面の人間とセックスするのは初めてだった。それも、まだ出会って数十分しか経っていない、友人の恋人と。休憩で入ったその部屋はとても埃っぽかったが、ふたりともそんなことは気にしなかった。
「ネズくん彼女は?」
「いません」
「うん、いなさそうだよねー」
 こういうときはお世辞でも「意外だね」とか言うんじゃないのか。おれはこの女がよく分からなくて、でも理解しようとも思わない。大きすぎる黒目は、彼女が別の生き物であることを示しているように感じられたから。
 大きな靴を脱いだ彼女は驚くほど小さい身体をしていた。怖かったので年齢は訊かなかった。華奢なおれの腕の中にすっかり収まるこの身体は、彼女が年端もいかない少女だということを如実に語っていた。キバナはどういうつもりでこの女と関係しているのだろう。
「まだ時間ありますよ」
 時計を何度もチェックする彼女がおかしくて、後ろから抱きしめて耳元で囁く。自分から誘ったくせに、他の男を気にしているのは面白い。
「そか、じゃあもっかいしよ」
 振り向きもせずにそう言って、スマホを裏返してテーブルに置いた。
 別れ際に、一度だけキスをした。「またね」連絡先も交換せず反対の方向に歩いて帰った。どうせ同じシチュエーションで再び会うと思った。
「ネズくんだ」
 案の定、そうやって何度もスタジアムの前であった。その度に彼女の方から声をかけてきて、キバナの話を少しだけして、ホテルに行った。キバナを待っているというのは口実で、本当のところはおれに会いにきているのでは――と思ったことも何度かある。けれどそれだけは決してあり得なくて、というのも彼女は「休憩」が終わると必ずスタジアムの前に急いで戻るのだった。意地悪で延長しようとしたところ、本気で殴られたこともある。「あたし、キバナ待ってるんだからね」本気で殴ったって、どうせ痛くないのに。
 彼女は自分のことは語らなかった。一度だけ「キバナが学校なんて行かなくていいって」ととても嬉しそうに笑ったことがある。やっぱり学生だったかと合点がいった。それ以上は聞かなかった。話したくないことは聞かなくていい。彼女がそうしたいようにすればいい。「休憩」の時間しかくれなくたって、彼女がそうしたいのならそれでいいのだ。それはつまり、おれは彼女を好きになりつつあるということだった。泣いているみたいに腫れぼったい目の、この少女を。
「……そのメイク、やめませんか」
「なんで? キバナはこれ好きなのに」
 この服もキバナが買ってくれたの。ピアスはお揃い。誕生日にこのネックレス買ってくれた。髪染めたら似合ってるって頭撫でてくれた。キバナが。キバナが。キバナが。彼女の全ては、キバナが。
 ああ、こんな子供を自分好みに染めるのは楽しいだろう。自分を好きだと言ってくれて、寒いなか素足で何時間も座り込んで待ってくれる忠犬はさぞかし可愛いだろう。
 いまおれの腕のなかにあるのは、キバナが作り出した形ある幻想。
 抱きしめても抱きしめても届かない。「あ、そろそろ時間だ」何度キスしてもその味は分からない。「今日もありがと」幾度微笑まれてもそれはおれのための笑顔じゃない。「今日のキバナもかっこよかったんだろーな」どうやって愛すればおれのものになるのか。「またね」そうやっておれたちは背を向けて、反対の方に歩く。
「あ、ネズくん、お疲れ様」
 彼女は今日も、そろそろ雪が降るというのに素足を晒して座り込んでいた。酒の缶はふたつ。さすがに寒いのか、余っている袖からちょこんと指を出してはあはあと吐息で温めていた。
 そのときのおれは少し高揚していた。バトルでキバナを負かしたばかりだった。バトル中に何度も彼女の顔がちらついて、キバナよりも早くここを出て彼女を連れ去ろうとしていた。ここではない、どこかに。
「――キバナが、ここで待てって言ったんですか」
「え?」
「答えてください」
 赤くなった指先を見ながら、おれの口が勝手に喋っている。「え、あ、うーん、まあそんな感じ」酒のせいなのかはぐらかしているのか、彼女は笑うだけでなんとも答えない。
「おれなら、おれだったらそんなこと絶対に言いません」
 おれが恋人なら、
「メイクも服装も、自分が好きなようにしてください。おれは君が、」
「うるさいなあ」
 好きなんです、と続けようとしたところで遮られた。チッと彼女は舌打ちをした。初めてのことだった。高揚していた気持ちが急激に落ち着いてゆく。
「メイクも服装も好きなようにしてるの。キバナがこれ好きだからいいの。あたしはこれでいいの。どうせキバナなしで生きられないあたしなんだから、これでいいの。あたしは、これでいいの」
 大きすぎる黒目がどんどん虚になっていって、
「しくじっちゃったな。ネズくんならあたしを好きにならない思ってたのに」
 飲みかけの缶を手に立ち上がる。
「はい、あたしたちはこれで終わりです。さよーなら」
 にっこり。とても柔らかい微笑み。ぱしゃ、と顔面に勢いよくアルコール飲料が飛んでくる。「う、わっ」突然のことに両手を上げて顔を庇った。もう二度ほど浴びせかけられて、咳き込む。通行人が足を止めたのが分かった。ネズが往来で女に酒をかけられていたら目立たないはずがない。「話を……」話をしましょう、と言いかけて腕を下ろした。目の前にいたはずの少女はいなくなっていた。
 始まりの終わりが始まったとき、こんな終わり方は予想していなかった。
 おれはどうしたかったのだろう。ふ、と自嘲気味に笑ってみる。どうせキバナが作り出した幻想、キバナのもの、キバナの持ち物がおれに貸し出されていただけ。
 しくじったな。彼女の言葉を借りる。今更気づいても十五分遅い。大人しく借りていればよかったのに、自分の色をつけようとするのはおこがましかった。
「うわネズ、なにそれ」
 諸々終えて出てきたキバナが後ろに立っていた。
「お前のファンにやられました」
 シャワーを浴びるので、と入れ違いにスタジアムに向かう。なんかごめんな〜と呑気に謝るキバナに、さっきの彼女のような微笑みを返した。ああこれは、諦めと許しの微笑みだったんですね、君は最後まで優しくて我が儘でした。でもそんなところもきっと、キバナの好みに染められてのことなのでしょうね。

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