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忘れられた手帖から



 その時、その瞬間にはとても恋しかったのに、それきり忘れてしまうということはままある。焦がれて憧れて、届かなくて、そしてきっと頭か心の奥底に沈めてしまうのだ。
 例えばオレンジ色のネイル。淡いピンクの可愛いリップ。大胆に背中があいたワンピース。いまのわたしはどれももう、欲しいとは思わない。でも欲しいと思った気持ちは確かに思い出した。
――霧のふかい夜、水銀ランプを片手に真赤な裏のついたマントをきて歩き、ガス燈の上に黒猫のすきとほる金の目をのぞきたい。
「なんですか、それ」
 ひとつひとつ確かめるように音読すると、詞を書いていたネズが振り返った。
「忘れられたこと」
 刺繍の表紙を見せて説明になっていない説明をする。
 久しぶりに手にしたその文庫本はすっかり埃をかぶっていた。学生時代には何度も何度も読み返していたというのに、わたしはこの本のことをしばらく忘れていた。忙しさにかまけて、抽象的で美しい言葉から逃げていたのだ。憧れるそれらは、決して自分のものにはならないと知ってしまったから。あの頃は若かったのだ。詩人になりたいと思っていた。美しさを自分でも紡いでみたいと思っていた。繰り返すが、若かったのだ。無謀、ですらないその願望を笑わずにいてくれたのは恋人のネズだけで、しかしわたしにそれを諦めさせたのは彼でもあった。
 ネズの言葉は飾らない。ビロードも纏わず、退廃的でもなく、裸足で路地裏を歩くような、そんな詞を書く。オレンジのネイルもピンクのリップも、なくてもいいやと思わせる歌を書く。わたしを丸裸にしてしまう歌を。抽象的な美しさなんて程遠い、すぐ隣で泣き喚いている子供みたいな歌詞を。
「わたしさ、詩人になりたかったんだよね」
――真黒い空間へサーチライトの赤や青が入れちがつてゐる夜、エスノトペルテリーの発明した鋼鉄製飛行機に乗つて、真紅な光の尾を引きながら一直線に月の世界へのぼつて行きたい。
「そういえば、そう言ってましたね」
「あの頃は、月の世界に行きたいと思ってたから」
 ネズはいまいち分からない風に笑ってみせた。
「でも月にネズはいないじゃん」
 ネズはスパイクタウンにいて、だからわたしは美しい世界を諦めた。美しくなくても、わたしがあるべき場所が分かってしまったから。
「おれが行くと言えば、また詩人を目指しますか?」
「ネズは行かないよ」
 だってここじゃないと生きられないもの。
 飛行船のキャプテンになりたいと綴った詩人の文章を目で追いながら、わたしはそれ以上なにも言わなかった。やっぱり詩人になりたいのかとかなりたくないのかとかそんなことはもうどうでもよくて、ただネズが詞を書き終わるのを待っている。抽象的でも装飾的でもなんでもない、あけすけなネズの歌詞を。
 ただ、きっとネズはそこまで考えていなくて、書かなければならないと思ったままを書いているのだろう。それはそれで美しくて、なんだ結局わたしは美しいものから逃げられないんだなと思うなどしてみた。

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