作業のために安い部屋を借りた。築浅なのに破格の安さ、不動産屋はなにも言わなかったが明らかになにかがあったことが見て取れた。「前の住居人はどんな人でしたか」さり気なく聞いてみると「学生さんでしたねえ」と言葉を選びながら返事があった。こういうのは説明するのが義務だと思っていたがそうではないらしい。とはいえ賃料が安いに越したことはない。おれは壁紙や床板を張り替えてあることをしどろもどろに説明する不動産屋の言葉を遮って「自由業なんですけど、いいですかね」と切り出した。ネズさんならもう喜んで、という二つ返事のあと、がらんどうの部屋はおれのものになった。 最低限の家具だけ運んで、なんとなくシンセを鳴らしてみた。白い壁紙に音がすうっと吸い込まれていく。新しいものはなんでもいいものだ。気分が良くなって、防音をいいことにギターをアンプに繋いで思い切り弾いてみた。指先にじんと伝わる衝撃が気持ちいい。 実際、ここでひとが殺されていようが死んでいようが、どうでもいいことだった。 だから背後になんとなく気配を感じてもあえて振り向かないし、寝ているとき枕元に誰かが立っていても気にせず寝た。 ある日資材を届けにきたマリィが開口一番「うわっ」と悲鳴を上げた。「へえ、お前霊感あったんですね」からかう口調でそういうと「あの、部屋の隅に、」酸欠の金魚みたいに口をパクパクさせて妹はそこを指差した。だから振り向いて、初めてそれの姿を見た。所在なさげな女が、こちらを申し訳なさそうに見つめていた。足はあるんだな、と真っ先に思った。ファストファッションで間に合わせの服を買ったみたいな格好で、寒そうな素足だった。「こういうのって事故物件って言うんやろ?」こそこそと耳打ちするマリィの声は聞こえなかったことにして、ありがとうと礼を言って部屋から閉め出した。部屋にはおれと幽霊女のふたりきりになった。 「や、やっとこっち見てくれた」 幽霊っていうのはもっと掠れた隙間風みたいな声だと思っていたのに、案外可愛い声で拍子抜けした。 「はじめまして、じゃないですね」 存在を認めてしまったからには無視できない。「いまはおれが住んでいます。ネズといいます」握手を求めて手を差し出す。彼女もつられて手を出して、その小さい手はおれの手をすり抜けた。ああこういうところはきちんと幽霊なのだな。彼女は寂しそうな顔をした。 「わたし、生前はあなたを知らなかったんです、ごめんなさい」 「構いやしませんよ」 「――厚かましいですが、一曲リクエストしてもいいですか?」 「もちろん。なんでもやります」 それはひとりの男が恋をして破れるまでを描いた歌だった。いつも通りに歌いながら、これを終えたら彼女は成仏するのだろうかなどと考えていた。 歌い終えて、ふうと息をつく。彼女はさっきと変わらず、それでも少しだけ楽しそうな表情になっただけできちんとそこにいた。「ロックなんて、久しぶりに聴きました」普段はフレンチポップなどを聴いていたという彼女は数節口ずさんでみせた。よく分からなかった。 それから、週に何度かだけのふたりの時間が始まった。おれは彼女を見てみぬふりをやめて、できるだけ寄り添ってあげた。それはきっと一目惚れだったのかもしれない。こうなると分かっていたからあえて無視していたのかもしれない。でもそれは今になってはどうでもいいことだった。 新曲はまず彼女に聴かせたし、彼女のことを詞にしてみたこともある。変な歌詞っすね、と言われたが気にしなかった。 「お前、成仏ってしないんですか」 「うーん、まだしないみたい。してほしい?」 「成仏ってなんなんでしょうね」 「わかんない、なんだと思う?」 その頃にはおれたちはすっかり打ち解けて軽口を叩ける程度になっていた。おれは死んでいるというのに妙にキラキラした彼女の瞳が恐ろしくて、目線を合わせられずにいたが、それだけだった。抱きしめたくても、キスしたくても、おれたちは隣り合うだけでなにもできない。そんなことをしなくても恋人にはなれるのだと思うが、そこまで達観できないおれは彼女にキスがしたくて仕方なかった。彼女は寝ないから、寝顔にそっと口付けることもできやしない。そんなおれの煩悶はいくつかの楽曲になって世の中に溶けていった。 「本当のことをいうとね、わたしロックってやっぱり分からない」 「ライブに来れば分かりますよ」 そう、こんな小さい部屋で歌っていても本質は決して分からない。ステージに立って、思い切り楽器を鳴らして、オーディエンスと一体になる。そういった三位一体――たぶん、使い方が違う――がロックなのだと思う。少なくとも、小さい部屋のネズは正しくはネズではない。 「行きたいな、でもこんな格好じゃ外に出られないや」 破れたスカートを恨めしそうに摘んで、彼女は唇を尖らせた。 「メイクもしたいし、新しいブーツも履きたいな、それで、ネズがわたしのために作ってくれた曲を聴くの」 とても不便に思えたので、気休めになればとマリィに女性向け雑誌を買ってこさせた。「これくらい自分で買ってよね」妹は幽霊から必死に目を逸らしながら文句を言った。 「わあ、これ読んでたんだよ」 表紙をじいっと見つめて、首を傾げたり指を鳴らしてみたりする。「なんですか、それ」「こう……念じたらページが動かないかなって」ふふ、とふたりで笑った。はらりとページが捲れた。 「わ」 彼女はいままででいちばん嬉しそうな顔をした。 「なんだ、できるじゃん」 そして難しい顔をして雑誌と睨み合いを始めた。ページを捲るたびに変な顔をするのがかわいくて仕方ない。こんなに可愛いのに、どうして不意打ちでキスできないのか、本当にそれだけが残念で悲しく思える。 じっくり時間をかけて雑誌を一冊読む彼女にまた明日と声をかけ、部屋を出た。ここのところ毎日この部屋に来ていた。 「おはようございます」 次の朝、珍しく彼女は寝ているように見えた。なんだ幽霊もやっぱり寝るのか。昨日の雑誌を拾い上げると、至るところにドッグイヤーの跡があった。ブラウス、フレアスカート、ブーツ、たくさんのコスメ。それらを身につけた彼女を想像して、とても愛しくなった。 「あ、おはよう」 この身体になってから初めて寝たかもしれない、と彼女は笑った。「昨日は静かだったから読み込んじゃった」そりゃ、普段はうるさくてすみませんね。心の中で拗ねてみた。 一通り読んで満足したのか、彼女はもう雑誌を手に取らなかった。おれはまたマリィを呼び出してこっそり「このページにあるもの全部買ってきてください」と命じた。「アニキは妹になんでも命じていいっていう法律あったっけ?」憎まれ口を叩きながらも、妹はしっかり買い物を済ませてくれた。ネットで買えばよかったかなと思ったけれど、後から思いついても仕方ないので黙っていた。数時間後マリィが腕いっぱいにたくさんの荷物を抱えてきて、やっぱり彼女の方を見ないように「アニキのカード使ったけん」と言い捨てて帰っていった。あいつ、幽霊が怖いのかもしれない。それはちょっと面白いかもしれないな。 「明日ライブだっけ」 「覚えてたんですね」 「うん、わたしの曲演る?」 「ええ、たくさん」 「じゃあ明日は来ないね」 明日は一から十まで、ずっとお前のことばかり歌いますよ。だから、きっと、おれが帰ったらこの大荷物を解いてくださいね。どれも絶対お前に似合いますから。おれはそう言いたいのをひとつの微笑みに集約させ、特になにもいわなかった。 「ロックってさ、やっぱり難しいよね」 「それでもおれは、これがないと生きていけないんです」 彼女の文句みたいな台詞に苦笑いしながら部屋を出た。明日が待ち遠しいような、来て欲しくないような、不思議な気持ちになった。 馴染みのライブハウス、いつものオーディエンス、お決まりのショッキングピンクの照明。曲名をコールするたびに喧騒が広がるのは面白かった。なんだ今日のセトリは、とあちこちでざわめくのが分かって、本当にどうしたんだろうおれは、と感じた。彼女が来られるなんて保証はないのに、どうして彼女への愛を歌っているんだろ う。 アンコールを終えてステージを後にする瞬間、フロアのいちばん後ろがすうっと光ってみえた。「あ」振り返ろうにもスタッフに背中を押されてとっとと楽屋に捌けてしまう。急いで汗を拭いて着替え、息を整えてさっきの場所に走って戻った。 嘘みたいだが、彼女はそこにいた。 ああ、脚があってよかったな、と思った。 「ロックって、うるさいね」 えへへ、と彼女は笑った。きちんとメイクをした表情は死人とは思えないほど明るかった。ブラウスもスカートもブーツも、よく似合っていた。「やろうと思えばなんでもできちゃった」 自然とふたりの身体が近づく。彼女の顎に恐る恐る触れた。冷たい感触があった。心臓が早鐘を打つ。とてもスローモーションの時間が流れて、おれたちは確かに、キスをした。 「……ネズはロックがないと生きていけないって言ったね」 彼女は顔を赤らめる。 「……わたしはね、ネズがいないと生きていけないって思ったの」 「それは、」 「それってね、つまり、死んでちゃいられないってことかなって」 あはは、彼女は笑った。 「おっかしいな、これって成仏かな。あたしなんだか身体が軽くなってきた。耳はじんじんしてるけど、手足がすごく自由な感じ。もうなにも思い残すことはないって感じ」 「待って、」 待ってください。 「あはは、最後までロックがわからなかったのは、悔しいな」 そう言って、すうっと砂糖が溶けるみたいに彼女の姿は消えていった。唇にはいまにもなくなりそうな甘さが残っている。 あはは、あはは。 まだ笑い声が耳に残っている。 あいつ、天国だかどこだかにブラウスもスカートもブーツも持っていって行きやがった。もう少し時間をくれたら着替えも用意したのに。ついでに、おれごと持っていきやがれ、どうせなら。ロックなんて分からなくていいからもっとキスさせやがれ。全く、唐突な出会いは唐突に幕を下ろしてしまった。おれはたぶんこの悲しい別れも楽曲にするのだろう。そして歌うたびに傷ついて、キスの味を思い出す。 - - - - - - - |