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形而上のエロス



 わたしはつまらない女だった。趣味といえばリーグ戦の観戦、あとはポケモンの飼育。トレーナーではないからバトルには詳しくない。そんなわたしがダンデと出会えたのは偶然、付き合えるようになったのは奇跡に近かった。どうしてだか、彼はわたしを愛してくれる。怖いくらい。どこが好きかなんて、恐ろしいから訊けないけれど。わたしもまた、彼を深く愛した。怖いくらい。まるでもとはひとりの人間だったのではないかと思うくらいキスをして、セックスをした。肌と肌がぴたりと合わさる感覚は不思議なものだった。
 いつも通りの試合、珍しくダンデは負けそうになっていた。思わず応援する声に力がこもって、ほとんど泣きそうになる。キバナさんはダンデの親友でライバル。でも、やっぱりチャンピオンはチャンピオンで、余裕で勝ってみせるのがいつもの彼だった。今日はそうじゃない。いままでにない戦い方を見せるキバナさんに相当てこずっているようだった。
 ロッカールームに戻ってきたダンデは暗い顔をしていた。つられて、また泣きそうになる。「負けるかと思った」ようやくそれだけ言って、ダンデの胸で少しだけ泣いた。面食らった顔の彼は辺りを見回して、スタッフの視線に気づいてすぐ「帰ろう」と小声で囁いた。
 外に出てももやもやした気持ちは晴れなかった。涙こそ出ないが、ずっと泣いているようだった。ダンデの苦しみはわたしの苦しみだ。彼がそこまで思っていないにしろ、悔しくて寂しかった。
「おっと」
 聴き慣れない声に振り向くと、スマホを片手に笑顔のキバナさんが立っていた。「ダンデさまが女を泣かせてる」軽妙な言葉にくすりと笑う。ほとんど初対面だったが、彼のことはよく知っている。ダンデが話して聞かせてくれるから。
 それから、三人で並んで帰った。どうでもいい、くだらない話をしながら。
 最寄り駅が同じだというので、キバナさんと一緒に帰ることにした。ダンデは「よろしくな」と笑顔で手を振った。いつも通り、わたしの姿が見えなくなるまでその場で見守っているようだった。
「オレ様が負けた今日の試合も見てたってわけ?」
「えーと、はい」
 少し気まずくて、目線をうろうろさせる。
「オレ、かっこよかった?」
「それは、はい! キバナさんはいつでもかっこいいです」
 その言葉に嘘はなかった。もちろんいちばんはダンデだけど、キバナさんはその次にかっこいい。見た目の話じゃない。キョダイマックスを自在に操る姿はトレーナーでなくても惹かれるものだった。まあ、見た目ももちろんかっこいいのだけど。
「そか、よかった」
 に、と笑うと犬歯が光る。精悍な顔つき。ダンデとは違う野性的な表情が新鮮だった。
「駅から遠い? 家」
「そうでもないです、すぐです」
「じゃあ見送ってやるよ」
「そんな! いいですいいです」
 いくらなんでも、キバナさんと歩いていると目立ちすぎる。
「ダンデによろしくされたしさ」
 とウインクするから、ああ世の中の女性はこういうところに夢中になるんだな、なんて思った。
 駅からまっすぐ道なりに十五分、途中でクレープなんか買ってまた他愛のない話をする。キバナさんから見たダンデの話は新鮮だった。アイツめ、どんなに対策しても勝ちやがる。今日こそ惜しかったけどいつもは涼しい顔をしてる。腹が立つ。笑顔で話すから、本当にいいライバルなんだろう。少しだけ、羨ましくも感じた。わたしには永遠に味わえない感覚だ。
「あ、もう家見えてきました。ここまででいいので、ありがとうございました」
 ぺこ、と軽く会釈をする。
 キバナさんはまたに、と笑って、わたしの手を取った。あれ?と思ったときにはもう顔が鼻先まで近づいていて、
「キ、バナさ――」
 ちゅ、と軽い音がした。
「甘い」
 それはきっとクレープの味。
 わたしはあからさまに動揺して、持っていたバッグを取り落とす。
 なに、なにが、あったの。後退りしながら唇を擦る。
「おやすみ」
 まるでなにもなかったかのように、キバナさんは振り返って手を振った。わたしはその場にへたり込む。唇がじんじんする。
 なにがあったのかは、誰も教えてくれない。自分で反芻するしかない。
 キバナさんにキスされたと実感が湧いたのは、ぼうっとシャワーを浴びているときだった。

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