右手にはいつも白い包帯、左手に剃刀、唇には煙草、耳には大量のピアス。おれは彼女を「メンヘラ」と呼んだ。彼女はそれで喜んでいるようだった。 「あたしね、ネズの音楽しか聴かないんだ」 それと薬は常備三種類。ライブはいつもど真ん中の最前。 「あたしね、ネズのために生きてるんだ」 それは気分がよかった。少しぞんざいにあつかっても自分を好きでいてくれる人間がいるのは快いことだ。彼女はおれしか見ていなかったし、いままでもこれからもそうなのだと思っていた。対して、おれは彼女だけの存在ではない。オーディエンスは他にもたくさんいるし、家族だってある。友人といえる存在もあるし、恋人さえいなかったがそれに近い人間は複数人いた。つまり、彼女にはおれだけで、おれには彼女だけではない。メンヘラはたくさんいるうちのひとりで、目立っていたから覚えていた、ただそれだけのこと。 「あたしね、ネズに覚えてもらえるなんて思ってなかったから」 舌を出して笑う姿は年相応には見えなかった――何歳かは知らないけれど。 プレゼント、ファンレター、入り待ち、出待ち。大抵のファンがすることはされていた。おれはそのどれもにきちんと対応して「ああこいつはおれが好きなんだな」としみじみ感じた。それは優越感、だったのかもしれない。おれのために生きている人間がいる。おれのひとつひとつを丁寧に愛している人間がいる。 だからその日から、メンヘラの様子がおかしいことはすぐに分かった。 「いつもの白いリボンはしてねえんですか」 手紙を渡す右手には見慣れないバングルとリング。 「あ、気づいた?」 「そりゃ毎回見てますから」 「これね、もらったの」 「いいですね、似合ってますよ」 「そかな。嬉しい。ありがとう」 相変わらずめちゃくちゃな手首だったが、キラキラと輝くバングルはそれらをかき消すくらい輝いていて、似合っていた。「誕生日かなにかですか?」違っていると知っていながら訊いてみた。「ううん、全然」思った通りの返答に満足した。 「あたしね、このあと、約束があるの」 いつもは長々と要らないことを話すくせに、その日は妙に急いでいた。そんなことは初めてだったので少し戸惑ったが「そうですか」となんでもない顔をして見送った。普通はおれが見送られる立場なのに。 次のライブで入り待ちはされなかった。少しそわそわした。けれど真ん中の最前なのに変わりはなくて安堵し、やっぱりおれが安堵するのはおかしいなと思った。 「あたしね、今日ちょっと寝坊しちゃった」 驚いたのは、いつもと違って物販のシャツを着ていなかったことだ。ステージからは分からなかった。ラフな格好だったが、確かに一般的なおしゃれをしていた。髪も緩く巻かれている。 「可愛いですよ」 おれはプレゼントを受け取りながら微笑んだ。いままでそんなことは言ったことがなかった。メンヘラは面食らった顔をして、でもありがとうと受け取った。 だんだん、あいつが知らない女になる気がしていた。ライブの日にしか会わないからこそ変化には気づきやすい。とうとうセンターにメンヘラがいなくなった頃、おれは焦りさえ覚えていた。 「今日、どうしたんですか」 「え?」 「いつもの場所にいなかったから」 「あ、ううん、なんでもないの」 なんでもないわけあるか。お前にはおれしかいないくせに。 それに今日も、シャツを着てない。白いリボンもしてない。ピアスだって、見たことがない大粒のものをしている。 「なんか、ありましたか」 おれはできるだけ大雑把に訊いた。 「あたしね、手紙書いてきたから読んでほしいな」 いつもの封筒を受け取り、会話もそぞろにおれたちは別れた。 メンヘラからの手紙はきちんと寝る前に読んでいる。彼女も分かっているはずなのに、どうして今日は丁寧にお願いなんかしてきたのか。 シャワーを浴びて、寝る前、もう日付も変わってからいつもの封筒を開けた。飛び込んでくる特徴的な癖字。 〈あたしね、彼氏ができたよ〉 真っ先に目に入ったのがその文字だった。 〈いままではネズしかいなかったけど、彼氏ができたよ。ネズも知ってるひとだから今度紹介してもらうね。ネズのおかげで出会えたから、ありがとう。そのひとと過ごす時間が増えるから、ライブにはなかなか行けなくなるけど、でもネズはやっぱりわたしの神様だよ〉 ありがとう、があと三つは書かれていた。おれは呆然として手紙を取り落とす。 おかしくない。こんなことはよくある話だ。だってあいつはおれのファンで、おれはミュージシャンで、一方通行。あいつがおれに恋――していると思っていた。それなのに、現実はまるで違う。いや、違わない。これで合っているんだ。それなのにおれはどうして、絶望しているんだ? 〈あたしね、ネズに会えて本当によかったよ、ありがとう〉 最後の一行を読むのには苦労した。よかった、か。どうして過去形なんです? お前はこれからもおれのものですよね? 彼氏が誰だか知りませんが、これからもおれが最優先ですよね? 次にそれをいつ伝えられるかは、分からない。 - - - - - - |