憂鬱な彼女の趣味は蝶の標本集め。 おれはキラキラと輝く羽根を蛍光灯に透かして空を飛ぶ夢を見る彼女を見ている。 セラミックみたいな指先がコトリと標本箱を閉じるとき、目が醒める。ジリジリとウスバカゲロウが身体を燃やし、彼女は無感動にそれを眺めていた。 あの子の胸にはなにも灯らない。美しい命の抜け殻以外、あの子の胸に響くものはない。 死んでいるものにしか関心がない彼女を愛したおれの憂鬱。 「おはようネズくん」 「もう1時です」 この「おはよう」は「いまそこにいることに気付いた」という意味だ。埃の浮いたミルクが何日も食事を摂っていないことを示していた。 「カーテン開けますよ」 「ん」 ドレープが翻る。レースの白波がはためいた。 「なに食べたいですか?」 「フレンチトースト」 不必要な会話はしない。めんどくさい、と思ったが死んだものの世話をする人間の面倒はおれしかできないため、先日から全く姿を変えていないキッチンに向かった。料理した形跡なんてあるわけがない。 最低限のものが揃っていることを確認して、彼女の様子を伺いながらフレンチトーストを作る。慣れた手つきで。何度も繰り返したことだから。 「新聞来てた」 独り言の声が大きい。ずっとひとりでいると声のボリュームが調節できなくなるらしい。 そうだ、今日は流星群が降り注ぐ日だった。 記事を音読する声を聞きつつ、ついでに窓辺に飾られたサボテンに霧吹きをかけておいた。このサボテンが枯れた時が本番だろう。なんの本番かは分からないが、たぶんそういうことだ。 「この家から見られるかな」 「見られると思いますけど。見たいですか」 「見たことないんだよね」 イエス・ノーの質問に上手く答えられないのも彼女の常。「見たいですか」「うん」二度目は整然とした返事になった。 「夜中の3時がピークだそうですよ。起きてられますかね」 「寝てたらそのままにして」 結局、そこまでして見たいものでもないらしい。 仕方ない、流星群は標本ではないし。 彼女は移ろうものを信じない。「わたしが動いたら向こうも動くから」なんて独特の屁理屈で、人の心も信じない。 「標本はそこに在るから、それだけでいいの」 世界は彼女を電波と呼ぶだろう。おれは呼ばない。理解できるのはおれくらいだろうから。 「やっぱりパンケーキが食べたい」 不必要に大きな声で彼女は言った。この身勝手さが愛しい反面、もうできあがってしまったフレンチトーストの行き場がなくなってしまったことに途方に暮れた。 「寒いね」 「寒いですね」 「生きてるってめんどくさいね」 「めんどくさいですね」 午前3時、おれたちはとりあえず埠頭にいた。どこにいれば見られるかなんて調べなかったので、とにかく空がいちばん大きいところに出てきたのだ。 丸い、大きな瞳のような夜空がおれたちを眺めている。 彼女の蝶の標本を加工した髪留めがキラキラと輝いていた。こんなときでも死を纏うことを忘れない彼女が好きだと思う。 「あ、流れ星。たくさん」 その声に顔を上げた。 雨みたいに、たくさんの光が海に注いでいた。 「空は好きじゃないけどこれは綺麗だね」 ホットミルクを少しずつ飲みながら彼女はそう言った。珍しく微笑んで。 ふたりは不気味なくらい空を泳ぐ星々をしばらく眺めていた。どちらからともなく「眠い」「寒い」と言い出すまで。 そうして2日後、彼女はやっぱり死んだ蝶の世話をしていた。青く、鮮やかな標本を透かして見ては、ほうとため息をつく。 永遠の美だよ。生きてる人間を相手にしているネズくんには分からないだろうけど。 何世紀も前のサイエンティストみたいな台詞を吐きながら標本をうっとり見つめている。生きているものは得体が知れなくて怖いから。 「でも流星群は綺麗だったね」 冷たい空色のタイルに爪先立てて、飽きずにずっといろいろな標本箱を矯めつ眇めつ眺めている。 おれはなにも言わずカーテンを開けた。彼女は一度ちらりとこちらをみて、自分に無害なことを確認して作業に戻った。 昼の月が出ている。あのときの星々のようにはっきりとは分からない。ただ、そこに在るだけ。標本と同じだ。「興味ない」と言われるに違いないが。 光の雨が特別、もしくは気まぐれのため偶然彼女に灯りを点けただけで。 おれは静かに俯く彼女の胸に光り落ちる星になりたいと思った。 - - - - - - |