暑い。長袖を着てきたのは失敗だった。クーラーをつけるほどではないが、じとりと背中に汗をかいている。 昨日のことを問いただそうにも、そんな元気がなかった。ただ忙しそうに動く彼女を見ていた。今日は少し忙しい。先日の塩試合に関する取材の申し込みがまとめてきている。彼女はその問い合わせをひとつずつ吟味して、このメディアからの質問はこれ、これは受けなくてもよさそう、と丁寧にオレに投げてくれる。いてくれてよかった。オレひとりだったらどれもぶん投げて余計雑誌に下世話なことを書かれるに違いない。なかには少し失礼な質問もあり「ひどいですねこれ」と彼女はオレの代わりに憤慨するのだった。 なあ、ひどいのはオマエもじゃねえか。 オレは冷えピタを額に貼ってじっとしている。動くと余計に暑くなるから。 オマエだって、オレがいるのにダンデに媚びてただろ、あれってひどいよな。 元気なら声を荒げてでも問い質したい。暑くて助かったな、オマエ。 深く沈めていた身体を起こすとぎぃ、と椅子が軋んだ。昨日に引き続き、今日もダンデがやってくる。ランチミーティングだ。そろそろ時間なので部屋に行こう。「オマエは来なくていい」と先に制しておく。「はい、こっちしてます」その目は忙しさにぐるぐると回っていた。 「あれ?」 「アイツは別の仕事。オレだけ。不満なら帰れ」 部屋に入るなりダンデは彼女が本来立っているであろうオレの隣を指差した。「じゃあ帰ろうかな」と笑うダンデをスタッフが慌てて止める。「冗談だよ」「笑えねえ」そういえば珍しく時間通りに来たな。ミーティングの内容はつまらないものだ。定例なのでお互いの近況を報告するだけ。面白いチャレンジャーがいたら共有する。それくらいだ。だから三分の二はくだらない世間話になる。スタッフが席を外してふたりになったところで、オレは昨日のことを切り出した。 「アイツと電話したろ」 「さすが、気付くのが早いな」 気がついたわけではなく単純に知っただけだが、それは黙っておいた。 「手ぇ出すなよ」 「どうしてだ? だって彼女は別にお前のものでもないだろう」 「は?」 「え?」 そうか、聞いてないのか。じゃあオレから言うのもおかしいかもしれない。少しだけ考えて「仕事がやりにくくなる」と適当に答えた。 「なんだそんなことか」 ダンデは呆れたような顔をした。 「じゃあその前に彼女が変質者に付き纏われているのをどうにかした方がいいぞ」 「――は?」 「昨日の電話ではそれしか話してないんだ。今日も心配だから、オレが送る約束をした。だから仕事が終わるまでここにいさせてもらうよ」 は? 「いや、だったらオレが、」 「そんなこと、あの子が恐縮するに決まってるだろう。オレだからいいんだよ」 昨日の、林檎を握りつぶした感触が蘇る。どうしてダンデなんだ、どうしてオレじゃないんだ。 自分でも訳が分からなくなって、そうか、それならよろしく、と虚な返事をした。スタッフが戻ってくる頃にはすっかり話すこともなくなり、オレは自分のフロアに戻ろうとした。 「キバナ」 ダンデが呼び止める。 「オレは本気だぞ」 「……あっそ」 精々、ひとりで踊るといい。どうせアイツはオレのものなんだ。 その日はダンデにムカついたので彼女を見送らなかった。ふたりでビルを出るのだけ眺めて、さっさと家に帰る。今日はまともにアイツの顔を見ていない。スマホを立ち上げていつものようにカメラを起動した。 「――は?」 今日何度目か分からない声が出た。カメラの真ん前にダンデが座っている。いつも彼女が座っている位置だ。アイツ、部屋に上がり込んだのか。常識がなさすぎる。オレでさえ断ったのに。 〈ありがとうございました。紅茶で良いですか?〉 〈ああ、なんでも。ありがとう〉 やけにクリアに聴こえる会話が憎らしい。手が怒りで震えるけれど、目と耳が離せない。 〈今日は大丈夫でした。ダンデさんのお陰です〉 なあ、おい、どうして、 〈できることなら毎日送ってあげたいが、さすがに無理だな〉 どうして、オレ以外の男とそんなに楽しそうに話すんだよ。 それからの会話は耳を素通りして去ってゆく。ただ、彼女が楽しそうなこと、ダンデがやたら優しいことがとても恨めしかった。ふと、ダンデが明確にカメラ目線になった。オレは怯む。 〈あのぬいぐるみは?〉 〈こないだ買ったんです。可愛くてお気に入りです〉 まだカメラ目線だ。睨み付けられているような気もする。 〈怖がらないでほしいんだが、〉 と前置きして 〈その、ああいうところに盗聴器が隠されていたり、監視カメラがつけられていたりすることもあるそうだよ〉 余計なことを! オレは聞こえないのに舌打ちをする。 〈え、と〉 ダンデとこちらを交互に見て、彼女はとても不安そうな顔をした。 〈でも、大丈夫です。これは自分で買ったので〉 〈――部屋にも入られているんだろう?〉 彼女は持っていたカップを取り落とした。かつん、という音がこちらにまで聞こえた。 〈そ、それはまだはっきりしないですけど……〉 ダンデがこちらに近づいてくる。やめろ! 来るな! 心臓が早鐘を打つ。大きな手がカメラの前にかざされた。オレは反射的に目をぎゅっと瞑る。 〈ああ、ほら〉 次に目を開いたとき、ダンデの顔が大きく映し出されていた。畜生。アイツ、カメラを外しやがった。せっかく彼女を見守っていたのに! どうしてアイツは邪魔ばかりするんだ! 〈そ、んな〉 いまにも泣き出しそうな声も聴こえた。 〈オレが捨てておくよ〉 ことりと机のうえに置かれたカメラから、もうふたりは見えない。オレはやけくそになって聞こえもしないのに罵声を吐き続けた。どうしてオレと彼女の仲を邪魔するんだ。どうして余計に不安を煽るんだ。 そこでふと気がつく。 もしかして、いままでの変質者とは、ダンデのことだったんじゃないか? 一目惚れしたと言い訳しながら、実はその前から彼女を狙っていたんじゃないか? ――だから、邪魔になるオレを遠ざけようとしているんじゃないか? すべての辻褄が合った気がした。彼女が危ない。 暑さのせいかダンデのせいか、それとも他のなにかのせいか、頭がくらくらした。 - - - - - - |