たぶん、節操なしとは違う。これはそういった言葉が高尚に思えるほどだらしなく生温いものだ。好意のベクトルはそれぞれ一方向。ネズにわたし、わたしにキバナ、キバナを想う誰かもいるかもしれないけれど、それは知らない。ついでにいうなら、ネズが誰かに好意を寄せているのかも知らない。だって彼はなにを考えているか分からないから。そういうところも好きだと思ってしまうわたしは、殆ど末期に近い。 だからこうやってキバナの家でキバナとふたりきりになっても、どきどきしたりきゅんとしたりしない。お酒もあるけれどなにも関係ない。酔った勢いで、とかはなし。でもキバナは隙あらば一線を越えようとする。とても狡いと思うが、それを毎回躱してこうやって家に入り浸るわたしも相当狡い。相手の好意を利用することはとても楽しい。 「あー、返事ないなあ」 さっきからスマホを何度も見る。小一時間ほど前にネズにメッセージを送ったっきり、なにも応答がない。今日はライブもないし、いいタイミングだと思ったのに。 キバナは黙って腕時計を見せた。もうすぐ明日になる。「そっか、寝てるかもね」うっすら酔った頭が「お前も寝ろ」と言ってくる。それを振り払うように氷水を飲んだ。明日も仕事なのに、こんなとこでなにやってるんだろう。まあいいか、キバナに送ってもらおう。それで化粧を落として、簡単にシャワーを浴びよう。それがいい、そうしよう。 買った頃に最新機種だったわたしのスマホはいつの間にか一周遅れの代物になっていた。随分とくたびれているけれど、掌サイズなので気に入っている。どちらかというとわたしの手は小さいので、最新機種だと余ってしまうのだ。現代人らしく、いつも手元にないと落ち着かない。ネズからメッセージが来るともっと落ち着かない。そういう一瞬を期待してみたけれど、相変わらず返信はなかった。 「帰る」 ゆっくり動いたつもりだったが、席を外した途端ふらりとした。思った以上に身体が重い。そして恋人みたいに――当たり前みたいにキバナはわたしの肩を抱いてくれる。 「やめてよ、大丈夫だから」 「オレの家だ。なにしようがオレの勝手だろ」 キバナの胸を押し返したら反動でわたしの方が倒れた。ぐらぐらと頭が揺れる。腰を打った。気持ち悪い。吐きそう。お酒のせいかキバナの優しさのせいか。 「ほら見ろ」 彼はしゃがみ込んでわたしと視線を合わせる。「なにが大丈夫、だ」 「うるさい。帰る。送って」 我儘を言っていることは自分でも分かる。 歳を取った犬みたく、四つん這いで緩慢に玄関に向かった。と、足首を掴まれて頽れる。今度は顎を強かに打った。 「痛い! 怒るよ」 いくらあがいてもキバナの力に勝てるはずもない。ずるずると引っ張られ、あっという間に後ろ向きにキバナの胸に収まってしまった。間抜けだなあ、と思う。わたしを抱き締めているキバナはどきどきしているんだろうか。 「そういうことするなら、ひとりで帰る。嫌い」 思い切り肘鉄を食らわせたら一瞬だけ緩んだ。 「……男がそういうことしたがって、なにが悪りぃんだよ」 一旦は緩んだ無骨な手が、ブラウスのなかに入ってくる。「あっ」耳を甘噛みされて変な声が出た。背筋が粟立つ。憎たらしいことに、身体だけはキバナの思い通りの反応をしてしまう。 意味が分からない。やめてほしい。 「やめ、て、ってば」 下着が乱暴にずらされたところで大きい手がわたしの口を塞いだ。こんなこと本当にするんだ、信じられない。 もう一方の手はスカートのなかに入ってくる。こうなるといよいよ酔いが醒め、焦りが出始めた。どうしよう、どうすればいいんだろう。心臓は破裂しそうなくらいばくばくしている。でも、これは恋じゃない。 「ぅ、あ」 「男ってのはそういうことがしてえんだよ。理解しろ」 吐き捨てられたその言葉は、知っていた、分かっていたけど見ないふりをしていた現実。 「オレ、もう我慢できねぇよ。なあ、おい、聞いてんのか。お前いつになったら、オレと」 だって、だって。キバナがわたしを恋しているのは知っているけれど、でも、わたしは――わたしはキバナがわたしのことを好きなくらい、ネズがすきなのだ。 うなだれたキバナはわたしの肩に重くのしかかった。 「……オレもう、意味が分かんねぇ」 かん、かん、と二度音を立て、グラスが床に転がった。 このあとわたしはきちんと服を着直すだろう。そしてキバナに見送ってもらって帰宅する。空々しくても、そうするしかないから。ベクトルは常に一方向。そうであらねばならないのだ。 - - - - - - |