途切れそうなネオンの光。煌々と照らす言葉は説得力を持たず。ここはひとのいない街。世界から埋もれた、海辺の街。スパイクタウンはいつでも夜だ。 おれは煙草に火をつけて、少し前のことを回顧していた。 海が近いこの街では強い潮風が吹く。後先考えず、ここまで来てしまった。トランクひとつで。 錆び付いている通りを重い足取りで歩む。 だって運命だと思ったから。 街明かりみたいにぼんやりした色のセーターが闇に溶けてそのままわたしも消えてしまいそう。 でも、運命だと感じたから、トランクひとつで、ネズに会いに来た。 トランクのなかは一週間分の服とメイク道具と鏡だけ。本当に後先考えていない。 履き古したブーツは底がすり減っていた。冷たいタイルをコツコツと鳴らしながら、わたしは歩く。まだネズはわたしを待ってくれているだろうか。トランクが少し重く感じた。 好きすぎて、泣きそうになりながら「一緒にいたい」と言ったね、あの日。あなたはなんて答えたっけ。 とにかくわたしたちは約束を曖昧なままにした。そのためわたしはここまで来て、潮風に煽られている。 酔ってベンチで寝ているひとを尻目に、わたしは歩みを進めた。 「一緒にいましょう」と曖昧な返事をしたっけ。 おれは普段ライブをしている寂れたステージに腰掛けて潮風を受けていた。髪が軋む。この街はなにもかもが錆びつきやすい。 だからあの子がこんなところに来ることはないと思った。 運命だと思ったから、あの子を錆びつかせたくなかった。 「一緒にいましょう」なんて妄言、約束のうちに入らない。 あの日初めて抱き締めてキスをした。ライブハウスの裏で、誰にも見つからないように。「好きだ」とかお互い伝えはしなかった。運命だと、信じていたから。ふたりは汗をかいていて、キスする指先がじとり と濡れていた。 「一緒にいたい」彼女ははっきりそう言った。 軋んだ前髪を意味なくいじりながら、おれはまた意味なくスマホで知らない連絡先を探してみた。電話番号くらいは聞けばよかった。おれはあの子のことを何も知らない。 ただ、運命だと思った。 このまま夜に溶けて消えてしまおうか。ちょうどおれも暗いことだし。妄言を取り消すにはそれがいちばんいい方法だ。 潮風。フェンスが嫌な音を立てた。 ネズは、そこにいた。嘘みたいに。 ここにくれば会えると勝手に信じていたけど、本当に会えるとは思っていなかった。心のどこかで、このままブーツをすり減らすことだけ考えていたみたいだ。 潮風。フェンスが嫌な音を立てた。 錆び付いたステージで男が猫背で座っている。暗くて表情はよくわからない。ネオンに照らされた彼は、ライブハウスの裏でキスしてくれた彼と同じひとに見えた、きちんと。嘘みたいだ。嘘かもしれない。 「一緒にいたい」心臓がそう悲鳴を上げた。「一緒にいられる」 トランクを投げ出した。 派手に鳴らしたブーツに、ネズは顔を上げる。信じられない、という顔をしていた。そう、それはわたしも。 少しの段差に足を取られて前のめりに転げそうになった。ネズはすぐに立ち上がって抱きとめてくれた。 あの日を思い出す。ライブハウスの裏で指を絡めた日。わたしたちは夢中でキスをしていた。約束もしないで。 「一緒に」「いよう」 顔を見合わせて、しなかった約束をふたりで思い出す。 ああやっと約束ができた。止まっていたわたしの座標軸はいまここから動き出す。 潮風が頬を撫でた。 あの子はそこにいた。まるで映画みたいに、綺麗な顔をして。夢かと思った。夢かもしれない。 確かにおれがどこにいるかなんてだいたいの人間が知っている。会いに来るファンもたくさんいるし、ここから出ていくつもりもない。埋もれた街で、埋もれたままいるのがお似合いだから。 トランクを投げ捨てて、彼女は駆けて来た。その顔、忘れもしない、あの時のまま。 抱きとめた瞬間、約束しなかったあの日を走馬灯のように思い出す。 どうして今ここにおれがいると分かったかなんてどうでもよかった。運命だから。運命に違いないから。だから、おれたちは顔を見合わせてやっと約束をした。 「一緒に」「いよう」 手を繋げば離せなくなる。肌寒いこの街で温もりを伝えてしまえば、彼女もきっと離せなくなるだろう。 「一緒に」「いよう」 止まるように静かな時間が流れる。ここは海辺の街、世界から埋もれた街。 錆びつきやすいこの地で彼女と約束をした。 やっと交わされた約束を、潮風が撫ぜていった。 - - - - - - |