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毒の皿



 皮膚が全て溶け落ちてしまいそうなほど長くシャワーを浴びた。実際、溶けて消えてほしかった。いや、消えたかった。ずっと兄のように慕っていた男に玩具みたいに弄ばれて、わたしの身体は襤褸のようになっていた。彼はとても優しかった。強いはずのゲームにわざと負けてくれて、強くなったなあなんて笑ってわたしの肩を抱いた。わたしも笑って、その手を払い除けることをしなかった。彼はそのままわたしの唇に噛み付いて同意もなしにこの身体を抱いた。彼にとってわたしは妹ではなく、女だったのだ。たぶん、オフショルダーを着ていたのが悪かったんだ。それかスカートを履いたまま胡座をかいていたのが駄目だったか、それか――とにかく、わたしがいけなかったんだ。忘れてしまおう。早く髪を乾かして、ネズとの待ち合わせに遅れないようにしなきゃ。
 階段を降りると、ネズはもう着いていた。「待ちましたよ」とまるで怒っていない風に文句を言った。
「ごめんね」
 努めて明るくわたしは振る舞う。だってわたしが弄ばれたことなんてネズが知るべきことではないから。それにわたしたちは正式な恋人同士になったばかりだった。恋人がいるのにほかの男の家に遊びに行くなんて、ああ、もう考えるのはやめよう。ネズはわたしの肩を抱こうとした。わたしは昨日を思い出してそっとそれを避けた。一瞬ネズは戸惑ったような表情をして、すぐになんでもなかったような顔をした。
 ネズが誰にも教えていない気に入っているグリルに連れて行ってもらった。料理を選んでもらっている間、手元のメニューのため伏せられたネズの睫毛をじっと見ていた。意外と長くて女の子みたいだなと思う。手足もわたしより細いかもしれない。
「どうしました?」
 わたしの視線に気づいたネズはゆっくり瞬きをしてこちらを見る。
「なんでもない」
 そう、なんでもない。わたしはなんでもない。
「変なやつ」
 それからネズが選んだ料理を食べて、くだらない話をたくさんした。主に話したのはネズだった。わたしは昨日から今朝にかけてのことなんて話せないからニコニコと相槌を打つ。恋人はキルクスでのライブが成功したことをそれはそれは楽しそうに話した。
 食べ終えてもまだ時間があったので、今度はわたしが気に入っているバーに連れて行った。お互いそんなに強くないカクテルを頼んでまた取り止めのない話をした。ネズが笑うたびに喉仏が動く。こういうところはきちんと男なのだなと思った。そしてぞっとする。恋人相手なのに。
 今夜、きっとわたしたちは身体が結ばれるのだろうなと思っていた。昨日までは。もちろんネズのことを男として見ているし、彼もわたしをそういう目で見ているに違いない。嫌なはずがない、ない、のに、わたしは鳥肌が立っていた。
 テーブルの下でネズはわたしの手をそっと握った。
「……ッ」
 途端にまた昨日のあの感触を思い出して思わず振り払う。ネズは驚いた顔をした。
「ごめん、もう出よう」
 誤魔化すのが下手なわたしはあからさまに動揺しながら店を飛び出す。少し遅れてネズは出てきた。
「お前、やっぱり変ですよ」
 分かってる。わたしが悪い。なにもかも。
 ネズがわたしの肩を強く掴む。頭の後ろが冷たくなった。笑うあの男の顔が去来する。わたし、わたし、そんな、
「っ、げほっ」
 路地裏に逃げて思いきり吐いた。くらくらする。あのときも吐いて逃げればよかったのに。ネズが背中をさするけれど、それも気持ち悪さにしかならなかった。
 泣きながら、胃のなかと一緒に昨日の出来事も洗いざらい吐いた。ネズは黙って聞いていた。ネズのことがすきなのに触れられると気持ち悪く感じること、軽蔑されても仕方ないと思っていること、それから、今夜はもう帰りたいということも。「ごめん」本当にごめんなさい、汚れてしまってごめんなさい。たくさんシャワーを浴びたけどまだあの感触が張り付いている気がする。だから触れないで、あなたまで汚れてしまうから。早く突き放して、どこかに行って、わたしが動けないうちに。
「――嫌です」
 ネズはわたしに触れていた手こそ退けたが決して離れていこうとしなかった。声が震えていた。怒ってるよね、そうだよね、ごめんね。
「おれがお前を見捨てられるわけねぇでしょう」
 思いがけない優しい言葉に、ずるずるになった顔を上げて彼の顔を見てしまう。
「どこのどいつだか知りませんが、それは今度おれの方からお礼をします」
 違う、そんなことお願いしたいわけじゃない。でも、じゃあ、どうされたいんだろう。分からない。なにも分からない。
「ごめ、なさ、い」
「もういいです、立ってください」
 よろめくわたしの身体をネズは極力優しく支えてくれる。でも、そんな手さえも気持ち悪く感じてしまって、わたしは、もう、なにも分からない。
「……上書きしてやりますから」
 怒ってるよね、ごめんね。
 わたしは泣いたままホテルに連れ込まれた。ネズはたぶん優しく抱いてくれたのだけど、やっぱりあの男を思い出してしまう。シーツに何度も胃液を吐いた。それでもネズはわたしを抱くのをやめない。
「おれのことしか考えられねぇようにしてやるから」
 薄れる意識のなか、ネズが切なそうにそういうのが聞こえた。怒ってるよね、ごめんね。わたしはそうするのが楽なので、意識を手放した。

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