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妄想の男



「わ、ヌメラだ。いちばんすきなんです」
 ぬいぐるみを手渡したとき、彼女はとてもはしゃいだ。
「なんで知ってるんですか?」
「ん、いや、貰いもんだから」
「嬉しいです、部屋に置きます」
「可愛がってやってな」
「はい! あ、そういえば」
 彼女は一枚のプリントを取り出した。それは有給の申請書だった。オレはこういう紙の文化がすきではない。口頭で全部済ませて了えばいいと常々思っている。彼女の書類には一週間の休暇申請が書かれていた。
「ちょっと海外行ってきます」
 仕事も大して忙しくない時期だったのでおれはもちろんOKを出す。
「ヌメラのお返しに素敵なお土産買ってきますね」
「いいよ、気にすんなよ。いつから?」
「実は今夜の飛行機なんです」
 弾丸旅行が趣味なので、と彼女は言い訳みたいに言う。
「気を付けてな」
 オレは爽やかな笑顔で応える。たぶんこういう書類は一週間前には提出するもので、この場合は却下するのが妥当なのだろう。だがいつも頑張っている彼女のことなので少しは多めに見てやる。これはオレの愛の形でもあった。
 ふたりで旅行に行くなら、どこがいいだろう。アローラなんか落ち着いてていいかもしれないな。ゆっくりしていて仕事を忘れられる。
 そんなことを考えているとあっという間に一日は終わった。彼女も少し浮き足立っていたので仕事はまともに進まなかったが、そんなことは全く気にならなかった。
「この子に留守番してもらいますね」
 帰り際、ヌメラに頬擦りしながら彼女は言った。余りの愛しさに抱きしめそうになってすんでのところで踏みとどまる。留守番か。確かに一週間の不在は変質者にはうってつけの機会に違いない。……ああ、オレに留守番してほしいっていうメッセージか。それならストレートにそういえばいいのに、恥ずかしかったのかな。そうだな、まだお互いの気持ちを確かめ合っていないからそんなことを言うのは気が引けるよな。
「任せろ、って言ってるぜ」
「キバナさんはちゃんと仕事してくださいね」
「おっと」
 いつものように彼女を一旦見送る。それから帰り道をフォローした。
 一週間か。
 とりあえずその日は彼女を空港まで見送って彼女の家に帰った。
 一週間か。
 あんなに執念く彼女を尾け回していた男がこの一週間休むとは思えない。きっと折を見てこの部屋に侵入しようとするに違いないから絶対に守らなければいけない。
 となると、仕事なんて行っている場合ではなくなる。とくにパーティーやバトルの予定もないし、この部屋に引きこもっておこう。
 ヌメラはきちんとベッドサイドに座っていた。
 一週間か、楽しそうだ。
 まず、この片付いている部屋を散らかさないようにするのが大変だった。だらしないいつものオレは口は脱ぎ散らかして服は脱ぎっぱなし、だがこの部屋で過ごす一週間は清潔でなければならない。シャワーを浴びたら髪を一つも残さないように掃除して、ゴミが出たらすぐに片付けた。もはや「来たときよりも美しく」がモットーになっていた。
〈着いた〜! 一週間だけど楽しむ!〉
 深夜、彼女のSNSが更新された。オレは寝転がってテレビを観ていた。ザッピングしながらまたコメントをする。〈楽しんでな〉と打って、その日は寝落ちした。
 翌朝、寝ぼけながらシャワーを浴びた。掃除は忘れず。それからトイレに入って用を足した。部屋が違うだけでやることは変わらない。トイレも掃除が行き届いていて彼女の几帳面な性格を表していた。パーツは変わらないのにオレの部屋のものより随分清潔に見えた。が、足元に小さなダストボックスがあるのに気づく。ピンク色のそれは、男のひとり暮らしには絶対にないものだった。
 好奇心、それは確かに好奇心にほかならなかった。もしくは、魔が差したとでもいうか。
 オレは屈んで、ダストボックスの口を開けた。ゴミがあるなら片付けなければいけないから、と自分に弁解しながら。
 白い掌サイズの紙ゴミが数本入っていた。特徴的なにおいがして、すぐにそれと気付く。
 いやいや、さすがに駄目だろ、オレ。
 見なかったことにしようとしても、好奇心が止まらない。白くて柔らかいそれを手に取って、恐る恐る鼻先に近づけてみる。彼女の清潔な香りがした。小さいテープで留めてあるのをゆっくり剥がす。いけないことをしているようでドキドキした。こんなこと、初めてする。丸まっていたのを開くと、そこにほとんど血はついていなかった。耳の奥が痛いほどドキドキしている。だってこれは、彼女のそこに直接触れていた部分だ。果たして、オレは痛いくらいに勃起していた。
 オレ、変態だったんだろうか。
 自問自答しつつ、欲望の赴くままにそれで性器を包んだ。冷たくて柔らかいそれは、彼女の手を思わせた。
「っは、あ……っ!」
 独特の匂いに陶酔しながら朝から大量に射精してしまった。さすがに後ろめたくて、その日は持ってきたノートパソコンで真面目に仕事をした。休憩のたびに、同じことを繰り返したけれど。
 それからオレは箍がはずれてしまったように色々なところでオナニーをした。彼女がいつも寝ているベッドで、座っているソファで、風呂場で、キッチンでもした。ベッドで射精したときはシーツに染みてしまったので慌てて洗濯した。キッチンの床に精液を溢したときにはこれから彼女がここに立つことを考えたらまた興奮して続けて射精した。もはやこの部屋でオレが自慰をしていない部屋はなかった。彼女の下着も使った。きっちり上下揃えてしまわれたそれを散らかして、口に含んだり鼻を埋めたりしながら自らを慰めた。
〈いまから帰るよ〉
 と投稿された空港の写真を観ながら、明日にはすっかりオレ色になったこの部屋に彼女が住むことを懸想して、またオナニーをした。それはどんなセックスよりも、やはり気持ちが良かった。
 ベッドサイドのヌメラに「明日からよろしくな」と言い残して、オレは部屋を後にした。



 翌日、彼女は職場に来なかった。遅刻ではなく、無断欠勤だった。オレは心配になって電話をかけた。
「すみません」
 とても元気のない声で彼女は応えた。
「ちょっと……すみません」
「具合でも悪いか?」
「いえ、あの……すみません」
 とても歯切れに悪い返事に、さすがにイラついてくる。
「なんだよ、オレはお前の上司だぜ」
「あの、あの、」
 ほとんど泣きそうな声。
「留守中に、変なひとに入られたみたいなんです」
「……? まさか、」
「いつも立ててあるぬいぐるみが倒れてて、それに、」
 ぬいぐるみ? ――ああ、テレビ横のあれか。あれならオマエが出て行ったときから倒れてたけどな。急いでたから気づかなかったんだろう。
「気にしすぎじゃねえか?」
 大丈夫。オレがちゃんと留守番してたから、変な男なんて入れてない。
「……そうでしょうか」
「今日の休みは病欠処理しとくな。明日は来れるか?」
「……はい、すみません」
 そんな声出すなよ、オレが守ってやってるんだからさ。

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