大学なんて久しぶりにきた。学生にバトルのコーチを依頼されて来たのだが、約束の時間になっても相手が来ない。頼んでおいて遅刻するなんて失礼なヤツ。オレはできるだけ不機嫌そうなメッセージを打って、時間が潰せそうな場所を探した。カフェはひとが多いし学食なんて行っても仕方ない。結局図書館に入った。昼下がりの図書館は睡眠の匂いがした。あちこちの机でうつ伏せになっている学生を見ると微笑ましい気持ちになる。誰もオレに注目していないようだったので適当に本棚のあいだをフラフラする。時間さえ潰せればどこでもよかった。なにも読むつもりはない。まったく興味のない哲学書ゾーンで背表紙のタイトルだけ眺めて過ごす。ぼんやりしていると小声で「あの、キバナさんですか?」と声をかけられた。とても小さい声だったので聞き逃しそうになったが、確かにオレを呼ぶ声だった。右下を見ると本を数冊抱えた女がこちらを見ていた。「わたし、キバナさんのファンなんです。応援してます」「ありがと」握手しようと手を出すと、彼女は困った風に笑った。「すみません、配架作業があるので」本が手放せないんです、と。学生かと思ったら司書のようだ。オレは行き場のなくなった手でそのまま興味のない哲学書を取った。「わたしもその作家すきです」彼女はにこりと笑って、それじゃあと小走りで立ち去った。狛鼠のように小さく、せかせかと動く様子が可愛かった。たぶんオレは一目惚れをした。 「遅れて本当にすみません」 「いいよ、気にすんな」 だから学生相手にも苛つかず対応できた。それどころか 「また来るわ」 と言って学生たちを喜ばせた。 それからほぼ毎日、その大学に足を運んだ。学生たちのバトルなんて半ばあくびをしながらコーチした。目的は図書館にいる彼女だけだった。通っているうちに彼女のシフトもすっかり覚えた。 その日はできるだけ目立たない格好で図書館に行った。量産型の大学生に埋もれてしまうように。それで彼女がすきだといった哲学書を読んでみた。難しくてさっぱりだったが、彼女が読んでいるという事実だけでその価値があった。読み終えた本を戻すために本棚に並ぶと向こう側に動く影が見えた。立ててある本をずらしてなんとなく向こうを見ると、彼女が幸せそうな顔で分厚い本を立ち読みしていた。オレは慌てて本を戻す。高鳴る鼓動をごまかすために更に適当に本を選んで立ち読みした。本棚を隔ててオレたちは向かい合っている。と、カウンターの方から彼女を呼ぶ声がした。偶然知ってしまったその名前は、彼女によく似合う可憐な響きだった。彼女が行ってしまったことを確認してから、オレは彼女が立っていた場所に移る。分厚い哲学書。さっきまで彼女が触れていた表紙。彼女がめくっていたページ。内容なんて入ってこない。オレは彼女の姿を追うように文字を追った。 家に帰ってから彼女が読んでいた本と、同じ作家の書籍を数冊ネットで注文した。ついでにモチーフになっている映画をネット配信で見て、やっぱり分からないなと苦笑いした。 「キバナさん、いつまでコーチしてくれるんすか?」 と学生は問う。 「オマエらが一人前になるまでな」 とオレは人聞きのいいことを言った。 ある日彼女は長期で休みを取るとカウンターで話しているのが聞こえた。オレは相変わらず正体がバレないように図書館に入り浸っていた。 「一週間くらいね」 一週間、大学にくる理由がなくなった。オレは適当なことを理由にしてコーチも休んだ。 ネットとは便利なもので、一冊本を買えば「これも」「これも」とおすすめが出てくる。オレは片っ端からそれをカートに入れて値段なんか気にせず買い漁った。映画もそうだ。一本観れば「これも」「これも」とキリがない。それでもオレは観続けた。一週間で、彼女が好みそうなものを全て食らった。頭がパンクしそうになったが、彼女の笑顔を思うと全く苦にならなかった。 一週間後、久しぶりに会った学生たちは完全に鈍っていた。オレは叱りつけて「今日はもういい」と愛想を尽かしたふりをした。学生たちは罰が悪そうでオレにすみませんと言うだけだった。オレは「また明日来るわ」と言って図書館に向かう。もちろん彼女に会うためだ。今日はだいたいいまの時間から勤務を始めるはずだ。 「あ」 案の定というか目論見通りというか、オレたちは入り口のゲートで鉢合わせした。 「キ、キバナさん」 「あ、どうも」 「わたし、この前声をかけた者です」 「あー……ファンだって言ってくれた子?」 わざとらしい。オレは記憶を辿ってなんとか思い出した風を装った。 「そうです! 今日はどうしてこちらにいらっしゃったんですか?」 彼女はとても嬉しそうに手を叩いた。オレは学生のコーチをしていることと、今日起こったことを話した。決して嘘はついていない。「大変ですね」と彼女は言う。「んなことないよ」とオレは答える。 「あのー、オレ、ちょっと探してる本があるんだけど」 話を変えて、先の一週間で一生懸命読んだ本のタイトルを口にする。それは彼女が好んでいる作家の一作品だった。 「どこにあるか分かる?」 「もちろんです。仕事ですから。それに、わたしその作家すきなんです」 にこ、と笑う。あの日と同じ。 「じゃあもしかしてあの映画も観たか?」 オレはまたわざとらしく映画のタイトルを口にする。「観ました観ました! すごい、わたし以外にあの映画を観てるひとに初めて会いました」「マジで? オレもだわ」「難しいですよね」「ほんとにな」彼女はどんどん目をキラキラさせる。 「すごい、こんなに気の合う方初めてです」 ふたりで初めて出会った場所に向かいながら、彼女は嬉しそうに言った。 「こんな偶然あるんですね」 無邪気なその様子がおかしくて、オレは笑いそうになる。偶然? まさか、オマエと話すためにここんとこずっと詰めてたんだよ。もうオマエのことなら殆ど分かるんだぜ。そう言ってみたい気持ちを抑え込んで 「ほんとな、スゲー偶然」 とオレは爽やかに笑んでみせた。 - - - - - - |