ご迷惑をおかけしました、と渡されたのは掌サイズのぬいぐるみだった。彼女がすきだといっていたあのキャラクターだ。成人男性への土産とは思えなくて笑ってしまう。彼女もわざと選んだようで「似合ってますよ」なんて冗談をいう。オレはとりあえずそれをデスクに置いた。顔をこちらに向けると、彼女の分身がオレを見ているようで可愛らしかった。 「楽しかったか?」 「そりゃもう! 久々に散財しちゃいました」 顔色も復活してきたようだ。この感じだと昨日は変質者が出なかったようだ。オレはほっとすると同時に、読めない変質者の動きに苛立ちも感じた。油断させておいてなにをするつもりだろう。とりあえず今日も彼女を見送らなくては。 彼女は一日中、隙を見ては昨日の話をした。あれに久しぶりに乗った、あのキャラクターと写真を撮った(見せてもらったが彼女の可愛さ以外に特に目を引くものはなかった)、あれを食べた、などなど。 オレ、それ全部知ってる。 と言いたいのを堪えて「楽しかったんだなぁ」とニコニコしておく。 昨日はリアルタイムでSNSの更新があった。オレが部屋の散策をしている間にも友達との自撮りなんかが珍しくアップされていた。オレは全てにライクを押して「楽しそうですね」なんて他人のフリしてコメントしたものだ。 「でも、ちょっと暑かったです。そろそろアウターがいらなくなりますね」 そう言いながら彼女はペットボトルの紅茶を飲んだ。 「喉も乾いて仕方なかったです。キバナさんも水分はしっかりとってくださいね」 喋りながらも手の動きを止めないのはさすがというべきか。カタカタとキーボードを叩く音がやけに部屋に響いた。 そのとき内線電話が鳴った。「もしもし」彼女は声音を切り替えて応える。「え、困ります。わたしもできないですよ。……まあ行くだけ行きますね」ガチャリ、電話を切る音。 「すみません、一階のコピー機が調子悪いみたいで直してきます。すぐに戻りますね」 「ついでになんか飲むもの買ってきてくれ」 「了解です」 わざとらしく敬礼をして、彼女はドアを閉めた。 部屋にはペットボトルとオレだけが残された。 なんとなく彼女がなにを飲んでいるのか気になって席を立つ。手に取ってみると、それはオレのスポンサーの出している商品だった。もはや呆れる。どこまでも仕事一辺倒なのか。そんな彼女に助けられているのだから文句も言えないけれど。 そういえば喉が乾いていた。 手にしたペットボトルを見て、ごくりと喉が鳴る。彼女が口をつけたペットボトル。少しだけ、少しだけ飲ませてもらおう。 きゅ、と音がして簡単に蓋は開いた。口を付けて、口内を潤す程度に飲んでみる。微糖。初めて飲む味だった。これが彼女の味。頭がくらくらした。飲み口ではオレと彼女の唾液が混ざり合っている。たまらない心地だった。オレはすぐに良からぬことを思いついて、自分で自分に震える。もし、もしもこのなかにオレの唾液が混ざっていたら。 「……バレなけりゃいいんだよ」 と誰に聞かせるでもなく言い訳をする。 オレはまだたっぷりある紅茶を再び口に含んだ。飲み込まない適度に。そしてそれをまたペットボトルのなかに戻す。少し泡立っていたので、なんとかごまかすように横に倒しておいた。 それはマーキングのつもりだった。彼女とオレが混ざり合って、ひとつになる。殆ど純文学にも近い恋心を自分でいじましく感じる。 「ただいま戻りました」 「お疲れ様」 何事もなかったフリをしてオレはスマホをいじっている。 「お茶でも淹れますか?」 彼女は横倒しになったペットボトルを手にして問うた。 「頼む」 オレはその様子を横目に見る。 彼女は――当たり前だが――なにも気にせず紅茶を口にした。「これ、おいしいんですよ」なんて言って。「新商品だろ、知ってる」「紅茶、飲みますか?」「あー、自販機が下にあるから同じの買ってきてくれ」「了解です」「悪ぃ」「いえいえ」なんでもない会話がなにより幸せに感じる。 オレと彼女が混ざり合った紅茶は、陽の光を透かして、デスクをキラキラと輝かせていた。 その日も彼女を見送ってから家に帰った。そしてオレはぬいぐるみと睨めっこをする。どう考えてもオレには似合わないし、オレのデスクにも似合わない。ありがたく受け取ったのはいいがどうしよう。あの部屋にこそこのぬいぐるみは似合うだろうに。 そうだ、オレの代わりにコイツに彼女を見守ってもらおう。 自分の天才的な発想に思わず手を叩いた。オレはエントランスまでしか見守ることができない。カメラでもつけて彼女に渡せば、きっとテレビ横かベッドサイドにでも飾るはずだ。そうしたらオレは家にいながらでも彼女を見守れる。変質者が侵入してきたらすぐに駆けつけることもできる。今日のオレ、キレてるな。 思い立ったら即行動。〈超小型 離れていてもペットを見守れます〉と書かれた指先程度のカメラをネットで注文した。早ければ明日の朝にも届くらしい。これだけ小さければ頭のリボンにでも着けておけば彼女にも気づかれない。こっそり、影から見守るにはうってつけだ。 「よろしくな」 オレはぬいぐるみに話しかけた。 「任せてよ」 と言われた気がした。 「これ、やっぱオマエが持ってろよ」 カメラが届いたその日、荷物を受け取ってから出勤した。そしてぬいぐるみを彼女に渡す。 「オレの部屋に合わねえからさ、気持ちだけもらっとくわ」 彼女は苦笑いした。「やっぱりそうだと思いました。クッキーもありますからそっちをどうぞ」用意周到。こういうところがすきだ。 ぬいぐるみを受け取って、先日オレがしたように彼女もそれをデスクに置いた。オレはスマホを出してカメラアプリを起動する。随分解像度は荒いが、しっかりと彼女を捉えていた。ガッツポーズしたくなる気持ちを抑えて、平然と仕事に向かう。 「あ、今日ネズのところ行ってくるわ」 「わたし行きますか?」 「いや、ひとりで行く」 これなら離れていても見守っていられるから。側にいられるから。オレがいないときの彼女の様子が見られることが楽しみで、そのときは敢えてそう答えた。 ネズは嫌いな仕事に不機嫌な顔をしていた。スパイクタウンでキバナとネズの雑誌表紙の撮影。ネズはモデルのような仕事をいちばん嫌う。それなのに受けるのは、やはりスパイクタウンのためなのだろう。 「お前、なんかご機嫌ですね」 「分かる?」 「クソうぜぇです」 何度も撮られながらネズは地獄の底から出るような声で囁いた。カメラマンには聞こえないように。 「どうせ女絡みでしょう」 オレは否定も肯定もしなかった。 「ほら、ネズの顔が怖いからカメラマンが困ってんぜ」 とオレは軽口を叩いてネズの背中を押した。鬱陶しい、と彼はそれを振り払う。まったく、それはいつもの光景だった。 撮影終わり、オレはすぐにスマホを開いた。低解像度の動画。そこには昨日と同じ紅茶を飲む彼女がいた。オレがいないのにだらけた様子もない。ほんと、真面目なやつ。だから変な男に好かれるのかもしれない。 「飯でもどうですか」 オレはネズの誘いを断ってすぐに帰ることにした。いまの優先順位は間違いなく彼女が頂点にいた。 「やっぱ、女ですね」 背後でネズが言うのが聞こえた。 オレは否定も肯定もしなかった。 事務所に戻ると、カメラで見た通りの彼女がそこにはいた。分かっていたがやはり実際に会った方が安心する。 「どうでしたか、撮影」 「オレさまだぜ?」 「完璧だったんですね」 ニコリと笑うその目元が眩しい。 この笑顔を守るためならなんでもできると思った。そう、なんでも。やがて彼女がすっかりオレのものになるまでは、暖かく見守ってやらないといけない。 - - - - - - |