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愛のニルヴァーナ


 愛は与えるものだと思っていた。
 それに不満があったわけではない。ただ、愛は与えるもので、積極的に享受するものではないと思っていた。愛することは少しのコツさえ掴めば簡単だ。愛することは許すこと。許すことは諦めることにも近い。
 だからおれは、諦めながら生きてきたともいえる。忘れもしない、初めて雪が降ったあの日までは。
 あの日、打ち合わせと称してキバナがうちの街までわざわざ来た。次のライブでサポートを頼んだことがいい口実になったようだ。特に打ち合わせる問題もないので、なにか厄介ごとを持ち込むつもりなんだろうと高を括っていた。
「彼女連れて来ちゃった」
 虚を衝かれる。ニヤニヤ笑う彼に蹴りを入れたい気分だった。人目がなければ行動に移していたかもしれない。
 妥協で舌打ちをして、すぐにそれを後悔した。キバナの後ろから申し訳なさそうに現れた彼女と目が合ったから。
 たぶん、きっと、恐らく、その瞬間から、おれは諦められない感情を持ち始めたらしい。
 だから雑談も打ち合わせもなにも全部頭に入らなかった。間違えてコーヒーを頼んだことだけは覚えているが、その日ふたりを見送るまでの記憶が全て抜け落ちていた。どうして彼女を連れてきたかの理由も聞いた気がするが、覚えていない。
 諦めないことは、即ち許されないことだった。
「ネズさん」
 彼女はおれの腕のなかで不安そうに瞳を揺らした。
「もう帰らなきゃ」
 そう聞いてより一層腕に力を込める。
 友達と出かけると嘯いて抜け出した彼女には帰る場所があるのだ。いつまでも我が家のベッドにはいられない。
「……帰らないで下さい、といったらどうしますか?」
 細い指が腕に絡む。「困らせないで下さい」いまにも泣きそうだった。彼の存在があるから、おれたちは永遠にはいられない。
 彼女はとても優しくて、許されないおれを受け入れてくれた。いつも困り顔で、おれが我が儘をいうと悲しそうに「困らせないで下さい」と応える。
 初めて、愛を欲しいと思った。
 餓えた獣が獲物を求めるように、激しい愛が欲しくなった。
 どういうわけだか、彼女は身体を許してくれる。おれが怖かったのかもしれない。それとも、恋人の友人だからトラブルを恐れたのか。それをいいことにおれは何度も柔らかい身体を貪った。骨まで愛した。燃え尽きてしまいそうなくらい、愛した。愛している。こんなにも。自分でもどうしようもないくらい。
 理性なんて彼女の前では破けて消える。
 愛して欲しい。全身。髪の毛から爪先まで、全部彼女のものにして欲しい。
「帰らないで下さい」
 愛して下さい。
「帰らないで」
 愛して。
 見栄も知恵も体裁も投げ捨てて、朝も夜も忘れて。手と手を繋いでどこまでも落ちてゆきたい。許されないおれは、許されないふたりになりたかった。
「……キバナが、待ってるから」
 手は振り解かれて、おれだけ奈落に落ちてゆく。
 愛されることは諦められること、許されること。彼女は心まではおれに許してくれない。
「じゃあ、帰さないまでです」
 このまま死んでもいいくらい、強いキスをした。
 
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