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憧憬は眠る



 ジムリーダーとリーグスタッフ。おれたちの関係はそれ以上でもそれ以下でもなかった。おれがマリィに引導を渡すまでは。
「なんだか寂しくなっちゃいますね」
 最後の日、切なそうに笑った彼女の目を見ておれは恋に落ちた。すとんと、落とし穴に落ちるように。
「まあ、エキシビジョンマッチに引っ張り出されますよ、どうせ」
 自分への照れ隠しに軽口を叩いておれは去った。それは嘘にはならなかった。
 相変わらずおれは忙しくて引退したとは思えない頻度でスタジアムに駆り出された。「ネズさんの試合は通が好むんですよ」金髪のスタッフはそう言った。そうですか、そりゃよかった。
 彼女も相変わらず忙しそうに走り回っていた。タオルやユニフォームを大量に抱えてあっちこっち行ったり来たり。ベンチに腰掛けてその様子をじっと見ていると、こちらに気づいたようでにこりと笑って小さく手を振った。その可愛い仕草にまたおれは一層深く落ちてしまう。単純な男だ。
 どうにかしてこの関係をいま以上のものにしたくなった。となると、おれには歌しかない。
 その日、おれは試合はないにもかかわらずふらりとスタジアムに立ち寄った。そして彼女を見つけて強引に封筒を渡した。「なか、見ていいですか?」丁寧にそう訊いてから彼女は封を切る。そしてゲストと大きく書かれたパスを見て、きょとんとした顔をした。
「今日のライブ、時間があれば観に来てください。それを受付で見せればふたりまで入れます」
 わあ、と大きな花が咲くように彼女は笑顔になった。眩しくて、美しい。おれはこの笑みにどうにも弱いらしい。
「とっても嬉しいです。ありがとうございます。絶対に行きます」
「楽屋にも入れますよ」
「わ、すごい。そんなの初めてです。ご挨拶に行きます」
 帰り道、おれは浮かれているのを誰にも悟られないように自分を押し殺して歩いた。いつもよりブーツが軽く感じた。
 午後七時、オーディエンスのコールに急かされながらステージに立つ。暗転、スポットライト、歓声。彼女がどこにいるのかは分からない。絶対に行きます、の言葉を信じておれは唇をこじ開ける。今夜は彼女にだけ捧げるつもりで歌うので、柄にもなく恋の曲など取り入れてみた。オーディエンスよ今夜だけはお前たちのネズではない。昂ぶるボルテージ、熱狂の渦、ネズを叫ぶ声、そしてアンコールはないのだ、今夜も。去り際に、フロアをちらりと見た。やっぱり彼女はどこにいるのか分からなかった。
 枯れた喉をペットボトルの水で潤して、彼女がいつ来てもいいように最低限の身だしなみを整える。来てくれると信じている自分が愚かで、少し可愛い気がした。恋とはひとを道化師にしてしまうようだ。
「ネズさん、お知り合いの方が見えてます、それと」
 続きを聞かずに振り返る。華やかな笑顔の彼女がそこには立っていた。
 それと、もうひとり、ダンデも寄り添うように立っていた。
 声にならない声が喉から漏れる。たぶん「どうも」に似た言葉を発していたはずだ。
「ネズ! 素晴らしかったよ!」
 ダンデは大股でこちらに歩み寄り、おれの肩をばしばしと叩いた。痛い。さりげなく振り払ってよそ行きの笑顔を取り繕う。
「どうもありがとうございます」
「あんなにかっこいい君を見られるとは思わなかった。初めて来たが、ライブとはいいものだな!」
「ダンデさん、ネズさん困ってますよ」
 彼女の助け舟があるまで、ダンデは大声でおれを褒めそやしていた。
 彼は叱られた子供のような顔をして彼女の肩を抱く。それはつまり、そういうことだった。
「ふたりまでっていうことだったので、お言葉に甘えちゃいました」
 おれはどんな顔をしていたのだろう。彼女は申し訳なさそうにそう言った。おれはたぶん「もちろんです」と答えた。ふたりまで入れると確かに教えたのだから彼女は間違っていない。友達を連れてくると思っていたのに、とんだ誤算だった。
 ダンデは変わらず、叱られた子供の顔つきをしている。下手なことをいって彼女に窘められるのを恐れているように見えた。
「知りませんでしたよ」
 あなたとダンデが、
「そうだったんですね」
 ふたりを見比べながら言葉を選んでいると、ダンデから「オレの恋人と君が仲がいいなんて、オレも初めて知ったよ」とはっきり死刑宣告が下された。
「仲がいいというか、お世話になってるだけです」
 不思議と無難な返事ができた。彼女も頷いて同調する。「わ、わたしもお世話になってます」その言葉はおれを徹底的に叩きのめした。彼女ははにかんでいて、おれはまた落ちていく。今度は奈落の底に。
「オレそういうの鈍いからな」
 に、と快活な笑顔はまさに彼女に似つかわしい男のものだった。
 おれはただでさえひどい猫背をさらに丸めて会話を続ける。三曲目はあなたのために歌いました、気に入ってもらえましたかね? 言いたかった台詞が喉の奥で縺れて消えていく。残った糸くずを吐き出すようにおれは「ええ」「まあ」「そうですね」と受け答えするだけになった。それでもダンデは気にせずいろいろとまくしたてる。彼女は苦笑いをしていた。苦笑いでも、あなたは綺麗なんですね。奈落の底からでも、その美しさははっきり分かります。
「もう迷惑ですよ」
 時計を指差しながらダンデを制する彼女はまるで母親のよう。
「おお、もうそんな時間か。悪いなネズ、長居して。疲れただろう」
「そんなことねぇです」
 よかったらまた来てください。心にもない言葉が口から飛び出した。
 彼女はまた大きな花が満開になったみたいな笑顔で「ありがとうございます」と応えた。
「じゃな、またスタジアムで会おう」
 大きな手が彼女の肩を抱く。恥ずかしそうに彼女は軽く会釈して、ターンする。
 去り際、ダンデはまっすぐおれを見て、瞳をギラリと光らせた。そして後ろ手でピースをしてみせる。
「……ッ」
 なにが鈍い、だ。最初から分かっていて見せつけに来たんじゃないか。楽屋に花束でも持ってきたつもりか。
 奈落の底でおれは精一杯の笑顔で中指を立ててやる。
 届かない花こそ美しいと思ったけれど、やはりそれは負け惜しみに過ぎなかった。

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