なにも分からないままここにいる。歌も人となりもなにも知らない。 友人の付き合いで初めてのライブハウス、初めてのネズ。ふだんクラシックしか聴かないわたしには刺激的すぎる音楽に身体が痺れる。唐辛子でも食べているみたいに唇がビリビリした。ネズの音楽はわたしの身体をすっかり覆って丸め込んだ。約三時間後、フロアから雪崩出た頃わたしの全身はくてくてのぬいぐるみになっていた。 友人は彼氏とご飯があるからと汗だくで先に帰って、特にすることもなかったので落ち着くまで煙草を吸うことにした。心臓がまだうるさかった。 めんどくさそうな顔つきのスタッフに喫煙所を訊いて教えられた通りライブハウスの裏に回る。そしてそこにネズはいた。 「あ」 さっきまでステージで見ていたひとが目の前にいる。ダルそうにしゃがんで、メンソールの匂いをさせている。不思議な気分だった。 「ライブ見てました」 ポケットのなかのくしゃくしゃの煙草を取り出しながらわたしは言う。大ファンならここで泣いたり喚いたりびっくりしたりするんだろうな。あいにくわたしは彼に対して無感情に近かった。わたしをくてくてにしてくれたけど。 「どーも」 そっぽ向いたままライターをわたしを差し出す。 「ありがとうございます」 わたしはネズに並んで座った。嫌がられなかったのが幸いだった。 まだビリビリと痺れる唇で煙草を咥える。 数分間、無言で座っていた。沈黙を破ったのは意外にもネズだった。「見ねえ顔ですね」と、またわたしの顔を見ないまま言った。友人の付き合いだと応えるとそうですかと興味なさそうに煙草をブーツのかかとで潰した。 「どうでしたか、おれの音楽は」 「痺れました」 「なんですかそれ」 「比喩でなく、本当に痺れたんですよ」 ネズはちらりとわたしを見た。落ち窪んだ目はギラギラと光っていた。 「そんな感想初めてです」 「変な感想ですよね」 「好きですよ、そういうの」 毒にも薬にもならない会話。 「おれ、あなたに一目惚れしました」 明後日の方角を見たままネズは言った。 わたしは無感動だったが、彼の顔が近づいてきて、キスをすることを拒まなかった。汗のにおいがして、メンソールの味がして、唇は痺れたままだった。 「おれはあなたのことをなにも知らないけど、愛しいと思いました。変な感想ですか?」 「分からないけど、そういうの好きです」 なにも分からないままわたしはここにいる。彼の人となりもなにも分からないまま。わたしたちは胎児のように真っ新だった。 - - - - - - |