ぬいぐるみが突然牙を剥いたみたいな。 それまで居心地のいいお兄さんだったキバナさんが急に怖い顔になってわたしを押し倒したとき、時計はちょうど午後十時になるところだった。十時がスイッチだったのかな、なんて間抜けな考えが頭をよぎった。アルコールの酩酊のせいだったのかもしれない。とにかく、キバナさんは突然変わってしまった。 「、はは」 いつもの爽やかな笑顔とは違う、じっとりした笑み。 「こんな時間にオトコの家でなにしてんの、オマエ」 なに、してたんだろう、わたし。 ウイスキーが半分くらいはいっていたグラスがからんと音を立てて床に落ちた。氷と液体がフローリングに広がる。わたしの髪までウイスキーが沁みてきたところで、キバナさんはまた笑った。「ははは」その笑い声が強くて、わたしは立ち上がろうとする。だけど肩と右手首を掴む彼の力はとても強くて身動きが取れない。 フリやジョークでないことはすぐに分かった。わたしだってただ無垢なだけの少女じゃない。 「……やめましょうよ」 できるだけ彼を刺激しないよう、回らない頭で一生懸命言葉を選んだ。 いまなら、なかったことにできるから、やめましょう。 キバナさんの片手が離れる。よかった、分かってくれた。 そんなわけはなくて、彼はポケットからスマホを取り出してすぐ近くの棚に置いた。とても嫌な予感がした。 「キバナさ、」 「オレさぁ」 池の深いところにいる鯰みたいなじっとりした目つき。 「可哀想なのってダメなんだよな」 意味がわからなかった。 「だからさ、笑えよ」 言うが早い彼の拳がわたしの鳩尾を殴った。声にならない声が吐き出される。同時に喉が焼けるように熱くなり、さっきまで飲んでいたアルコール類がばしゃりと溢れた。嘔吐した液体がウイスキーと混ざり合う。 こんな状態で笑えるわけがない。 わたしの両目から涙が零れる。視界がぐしゃぐしゃになってキバナさんの表情はわからない。だけどもう一度拳が振りかざされたのだけはわかった。 「ごめ、ん、なさ、」 一生懸命口の端を歪めてみる。笑えているかな、笑って見えるかな。 ゆっくり拳が下ろされたのがぼんやり見えた。ちゃんと笑顔になっていたようだ。 「キバナさん好き、って言ってみ」 その命令はいまのわたしには難しいものだった。呼吸が整わないから声が出せない、それ以前に、わたしはキバナさんのことは、 「なあ、言えよ」 「ッ、キバナさ、ん、すき、で、す」 見えないけど、彼はきっと怖い表情をしている。 「もっと」 「すき、す、き」 お腹がキリキリと痛む。殴られたのなんて生まれて初めてだ。まさかそれがキバナさんだとは想像していなかった。 だってキバナさんは幼馴染の素敵なお兄さんで、憧れの存在で、頼れる人で、そんな、 「キ、バナさん」 言うとおりにしないと殺される、そんなこと思ったのも生まれて初めて。 「だいすき、」 だから苦しいながらも必死に言葉を吐く。口の端からはだらだらと唾液が溢れて、こんな汚い姿見られたくない。いろんな液体が髪に絡んでいた。 キバナさんはゆっくり服を脱いだ。黒いシャツが乱暴に脱ぎ捨てられて、わたしはこれからなにが起きるかを察する。 イヤ、ダメ、それだけは。 金魚みたいに口をぱくぱく動かして必死に抗う。掴まれた手首がとても痛い。 「大好きなキバナさんに抱かれるなら、本望だよなぁ?」 ほとんど脅迫だった。 わたしは首を横に何度も動かす。子供みたいに。キバナさんはそれを見てまた拳を握る。「ごめんなさい!」わたしは泣き叫んで謝る。もう殴られたくない。痛いのは嫌だ。暴力での支配はなによりわたしを従順にした。 彼は片手で器用にわたしのブラウスのボタンを開けていく。それから下着を奪い取って胸を乱暴に鷲掴みにした。また、痛い。わたしは歯を食いしばる。 「いただきます」 キバナさんは下品に笑って乳首にかぶりついた。単純なもので、生温い舌が弄ぶように動くと体がひくりと動いてしまう。既に快感を知っているわたしの身体が憎く感じた。わざとらしく唾液の音をさせる彼も憎かった。怖いのに、下半身は素直に反応している。たぶんわたしのそこは濡れてきているんだ。 「も、やめ、っ」 やめてと言いそうになって慌てて口を噤む。否定的な言葉は暴力のスイッチだと学んだばかりなのに。 拘束が解かれて、彼のもう片方の手がスカートのなかに侵入する。「あっ」ダメ、触らないで。身をよじって抵抗してみる。無意味だと分かっていても。 下着を破るように脱がせて、キバナさんはいきなり指を捻じ込んできた。 「あ゛っ」 痛い。わたしは可愛くない悲鳴をあげる。痛い、濡れていても痛いものは痛い。反射的にキバナさんの肩を押し返すけれど彼の力に勝てないことは当たり前で。 「い、た、いたい、いたいです、いたい」 ぐりぐりと中をいじめる指先が辛くて声を何度も上げる。 「いたいっ、キバナさん、やめてくだ、さい」 だんだん喋れるようになってきたのに、わたしときたら同じ言葉ばかり繰り返す。壊れたレコードみたい。 「じゃなくて?」 「……っ」 あの目がまたわたしを追い詰める。 「す、すきです……」 答えは正解だったようだ。キバナさんは満足そうな顔をして今度は挿入する指を増やした。 痛い、いたい、いたい、でも、気持ち良い。 ぐちゃぐちゃとなかを荒らされて、それでもわたしの身体はだんだんと反応するようになる。「っあ、あ、あ、」恥ずかしいながらも嬌声が止まらない。 指が抜かれるまで、わたしは泣くように喘いでいた。もしかしたら泣いていたのかもしれない。もう自分がなにをしているのかよく分からなくなっていた。 がちゃりとベルトを外す音。これからなにが始まるか、もう誰でも分かる。わたしの身体は強張った。 それをしてしまったら、もう戻れなくなる。 「やめ、ませんか、」 掠れた声で提案、というよりも懇願する。殴られてもいいように構えて、もう一度やめませんかと問いかける。 「なんで?」 キバナさんは質問ばかりだ。どうしてもわたしの声が欲しいらしい。 「オマエ、オレのこと好きで、抱かれたいんだよな?」 「そんなこと、」 言ってません。 「言えよ」 じとり。 「だ、いてくだ、さい」 口が勝手に動いた。抱いてくださいなんて言いたくない。どうして言ってしまったの。殴られたくないから? たぶん、その通りだ。だって、本当にわたしはキバナさんを好きだと思ったことがない。好ましいと思っているけれど、恋愛感情ではない、のに。 「もう一回」 「抱いてください……」 無意味なやり取りをもう一度すると、キバナさんはよくできましたと言った。 見たくなくて、曝け出されているそれから目を逸らす。 だめ、なのに、 「い゛、あ゛っ」 やっぱりわたしは可愛くない声を出す。 キバナさんのそれはわたしが受け入れるには大きすぎた。なかなか入らないそれを何度もぶつけるキバナさんの腰つきはとても乱暴だ。「やめ、」やめてください。もうやめて。 浅黒い大きな手がわたしの腰を掴む。逃がさないと言われた気がした。 そうしてまた腰を何度も打ちつける。「げほっ、」胃液とアルコールの混ざった液体が口から出た。ぜえぜえと肩で息をしているわたしを面白くなさそうにキバナさんは見ている。 「キバナさん好きって言えよ」 「すき、です」 また胃液が溢れた。 ぐちゃりと熱が最後まで侵入して、わたしは一生懸命呼吸する。せめて息を整えるまでまってほしいのに彼は動きを止めない。むしろどんどん激しくなっていく。 「あ゛、あ、すき、っ、キバナさ、すきで、す」 自分を騙すようにわたしは繰り返す。 なかを犯すキバナさんの性器はどんどん激しく動く。内臓を引きずり出されそうな勢いにわたしはまた泣き叫ぶ。もう好きですと言っているのかイヤですと言っているのかも分からなかった。 「すき、すき、だいすきで、す」 彼の手が首に添えられた。ぎゅうと力が込められて、今度は呼吸が制限される。 死んじゃう。 「これも好きだよな?」 「すき、で、」 声にならなかった。キバナさんの腕に必死にしがみついて離そうとするけどこれも敵わない。キバナさんは嬉しそうに目を細めた。「オレもこれ好き」ますます力が強くなって、もうわたしは身体がバラバラになってしまいそう。 どれくらい乱暴されていたのかわからない。まったく訪れない快楽を待ちわびて、もうわたしの涙は枯れてしまった。痛くて熱くて痛い。もう死んでしまいたい。 何十回目かの「好きです」のあと、キバナさんはわたしの耳元に顔を寄せた。 「オレが好きなら、なかに出されてもいいよな」 もうやめてくださいと答える気力もなかった。曖昧に首を動かせば彼は一層力強く腰を動かす。 なかでどくりと熱が爆ぜて、行為は終わりを告げた。 キバナさんは額の汗を拭って身体を起こす。それからなにもなかったようにスマホを手に取ってわたしに向けた。 「笑えよ」 また口の端を歪めてみせる。 ピ、と電子音が鳴って、ああさっきまでの行為は撮影されていたんだな、とわたしに気づかせる。 「和姦成立」 彼はまた下品に笑った。 時計を見ようと首を動かそうとしたけれど、痛みで動けない。他人に好きにされた身体なのにわたしでは好きに動かせないのが腹立たしい。 そういえばキスがなかったな、と思いながら、わたしは口元を拭う。胃液だか唾液だかわからない液体がぬめりと光った。 - - - - - - |