あの頃わたしは制服だった。 南校舎の屋上、駅で買ったライターと覚えたてのメンソール。青空しか見えないそこがわたしの世界のすべてだった。青空の果てには絶望しか見えなくて、煙草の煙が羽ばたくように消えていった。ちゃちなフェンス。がしゃりと音を立てる。いつでも飛び降りられる。その事実がわたしを支えていた。家にも教室にもわたしの居場所はどこにもなかったから。羽ばたけば、自由になれるから。煙みたいに。たとえそれが絶望でもいまここにいるよりはましだった。 「不良」 強い風が吹いたあの日、聞き覚えのない声に咎められた。振り返ると知らない大人がこちらを見ていた。 「なにやってやがんですか」 陰鬱な顔の男は似合わない白衣を着ていて、ああ新任の保険医、名前は聞いたけど忘れた。わたしはフェンスに登っていた足を止める。別に、いますぐ飛び降りるつもりはなかった。スカートが風にはためいていた。 「死にますよ」 当たり前のことを言いながら大人はこちらに近寄ってくる。わたしは大人しく降りて胸ポケットから煙草を出した。そこで思い出す。ネズだ。この大人。ネズは黙って手を差し出した。煙草を没収するつもりかと思ってくしゃりと握りつぶした箱を手のひらに置いた。 「違いますよ。一本ください。そしたら黙っといてあげますから」 「……不良」 「お前に言われたくねぇです」 安いライターで火をつけて、ふたりは同じタイミングで煙を吐き出す。白は空へ舞って、風に吹かれて散っていった。 「屋上って校庭から見えやすいんですよ。保健室に来ませんか」 わたしは黙って頷いた。 保健室の窓からも、青空しか見えなかった。絶望が覆っていた。カーテンの向こうでネズの座る椅子が軋む音がした。白い鉄パイプのベッドに寝転がって、わたしは枕に顔を埋める。校庭からは同級生達のはしゃぐ声。とても耳障りで、白い枕を駄目にするまで泣き続けた。彼女達は皆キラキラして見えた。わたしとは違う生き物だった。カーテンに守られていなければ窒息死してしまいそうな世界だった。 「せんせー、眠い」 弾ける声が飛び込んできた。ああここもわたしの居場所じゃないんだ。くらくらする。枕に顔を埋めて息を止めた。 「ベッド空いてないです」 事務的に返事をするネズの声に、わたしはやっぱり泣いた。嬉しさなのか分からなかった。 「ケチ」 大して気にしてなさそうな彼女はすぐに出て行った。辛うじて、小さな居場所は守られた。 ネズは勢いよくカーテンを開けた。 「屋上の方が良かったですか」 なにもかも見透かしているようだった。わたしはまた黙って頷く。校庭の声、白い天井、小さな箱はわたしを息苦しくした。 ネズは手を差し出した。わたしはその手に自分の手を重ねる。「屋上、行きましょう」嬉しくて少し泣いた。 それからわたしとネズは毎日屋上で煙草を吸ってキスをした。制服と白衣だった。子供と大人だった。わたしもネズもそんなことは気にしていなかったけれど。誰かに見られたって構わない。ここだけがわたしの居場所だから。大人のことはよく分からなかったけれど、ネズもまた居場所を探しているようだった。 ネズはいつも手を引いて屋上まで登ってくれた。絶望の青空の下、どこまでも行ける気がした。ネズが連れて行ってくれるなら。飛行機雲、通る風、フェンス、わたしの世界は前より少しだけ広く見えた。 「飛び降りるなら一緒がいい」 「そうですね」 「ネズ」 「先生って呼びなさい」 「好き」 ネズは笑って返事をしなかった。それが正解だった。わたしたちは白衣で隠してまたキスをした。 青空の下、ずっと手をつないでいた。 「制服じゃなくなっても、好きでいて」 ネズは今度は困ったように笑った。 「そんなこと、お前は気にしなくていいんですよ」 制服のわたしを置き去りにして、いつまでもそうしていたかった。あの頃、わたしは確かに幸せだった。 卒業式、わたしは変わらず屋上にいた。 「不良」 初めて会ったときと同じようにネズは声をかけてきた。 わたしは泣いていた。二度とこの大事な場所に来られないこと、ネズに会えなくなること、いろんなことを考えていた。 「よく泣くヤツですねぇ」 いまここで飛び降りたら、制服のわたしを永遠にできる。わたしはフェンスに手をかける。がしゃり。あのときの音がした。 「もしお前がそのつもりなら」 止めないで。 「おれも一緒に行きますよ」 強い風が吹いた。白衣がはためていて、ネズは困ったように笑う。 制服のわたしはようやく呪縛から解き放たれた、気がした。 - - - - - - |