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混沌


 それはおそらく罪悪感が愛に変わったものだった。
 オレのスマホにはまだあの時の写真が残っている。あれから見ていないといえば嘘になる。たまに見返しては、優越感に浸っていた。女の泣き顔は気持ちがいい。それが好いている女なら、尚更。ごめんな、と言ってはいても、その実、オレは喜んでいた。
 最終電車で帰路に着く頃、ネズの吐露ですっかり機嫌が良くなったオレは浮き足立っていた。アバズレへの好意を認めさせたのは大きな進歩だ。だってアイツはいまオレの手の内にある。このままオレのものにしたっていい。そうすれば今度こそネズに勝てる。子供っぽい闘争心が燃えた。
 家が見えたので鍵を取り出そうとポケットに手を入れる。ふと、人影が見えた。身構える。
「キバナ、」
 アイツだった。寒そうな格好でオレの家の前にずっと座り込んでいたらしい。
「なにやってんだよ」
 青ざめた唇が痛々しい。慌てて抱き締めて体温を分ける。「そういうの、いい」冷たくされるのには慣れている。急いで鍵を開けてオレのカーディガンやタオルケットを適当に与える。「ホットミルク入れるわ」オレはどうしてこんなに必死になっているんだろう。
「ねぇ、ネズとなに話したの」
 背中に突き刺さる言葉。凛とした声に振り返れなくなる。
「なにが?」
「わたしが気づかないわけないじゃん、ネズのことなんだから」
 ごまかそうとしても無駄だった。オレはマグカップを握ったまま動けなくなる。いつもなら秒で適当にでっちあげたことを話せるのに、いまは、
「ねぇ、ネズとなに話したの」
 もう一度同じ台詞が繰り返された。少し震える声。彼女は明らかに苛立っていた。
「……オマエのこと」
 諦めて白状してしまう。
「なに、話したの」
 震える声が不憫で、思わず洗いざらい話してしまった。ネズの反応、ネズの気持ち、それからやっぱりオレはオマエが好きだということを付け足して。ホットミルクを手渡すオレは間違いなく愛に必死だった。
「でも、なぁ、アイツはどこまで本気かわからないぜ。オレに言われて自覚したみたいだし。オレの方がオマエを好きで、」
「わたしネズが好きだよ」
 オレの取り繕う言葉を遮り、彼女はまた泣き出した。まただ。この女はよく泣く。あれ以来。
「キバナを見てて分かったの。わたしはネズに愛されたい。ごめんねこんなことあんたに言うなんておかしいよね。でもようやく分かった。わたしネズが好きで愛されたい。どうしたらいいかわからないけど、身体だけじゃイヤ。ネズに愛されたい、愛されたいよ」
 堰を切って溢れ出すような物言い。
 オレは心のなかで舌打ちする。
「じゃあネズの前でも泣いてみせろよ」
 どん、とテーブルに手をつく。彼女はびくりと震えた。そうやって弱いところを見せるから、また愛しくなる。
「泣いてキスのひとつでもねだったらどうだ。人形みたいなお利口さんでいても愛されないだろ。アイツはオマエがなに考えてるか分からないっつってたのに、なんでオマエは泣いてみせないんだよ。人間らしいところ見せろよ。――畜生。なんでオレがハブになってんだ」
 今度はオレの声がだんだん震えてくる。
「帰れ」
 どうしようもなくなって、玄関を指さした。彼女はホットミルクをことんと置いて泳ぐように向かう。振り向いてくれ。やっぱり帰らないと言ってくれ。祈ってみても無駄だった。ばたん、ドアの閉まる音。オレはひとりになった。

「ねぇ、大好き。大好きだよネズ。泣いちゃうくらい好き。こんなの、ネズは嫌いだよね。でもさぁ、大好きだよ」
 わたしは泣きながらネズの留守電に声を吹き込む。帰り道、色んな人がわたしを振り返る。大泣きしながら電話している女がいたらわたしだって見てしまうだろう。だから気にせず録音を続ける。
「なんていえばいいのかわかんないや、ごめんね。大好きだよ。ネズのことしか考えられないくらい、大好き。ずっと、ずっと好きだった。ううん、好き。どんなネズも好き。言葉にできない。泣いたら、嫌われると思うけど、でも、大好きだよ」
 そこで録音は切れる。泣きながら話したからなに言ってるか分かんないだろうな。でも続けて吹き込むほどの元気はない。
 わたしは声を上げて泣きながら蹲る。路上で。
 心配した人が声をかけてくれるけど、いまのわたしにそれは必要ない。必要なのは低い体温のあのひとだけだ。
 愛に必死なわたしは、やっぱり世界でいちばん可愛い。
 ねぇ、ネズ、わたしのことたくさん抱いてくれたよね。それって嫌いじゃないってことだよね。期待していいかな。人間嫌いのネズだから、いきなりこんなに感情をぶつけたら嫌がるかな。ねぇ、泣いちゃうくらい好きだよ。初めから大好きだったけど、いまはもっと好きだよ。わたしの泣き顔を見たキバナを憎らしいと思ってくれるネズが、大好きだよ。
 しばらく泣いていたらネズが迎えにきてくれないかな、なんてありえない妄想をふりきって立ち上がる。どちらかというと心配したキバナが飛んでくる方が現実的だ。
 帰って暖かいお風呂に入ろう。そして感情を整理しよう。涙が乾いた頬が痛んだ。

「ねぇ、大好き。大好きだよネズ。泣いちゃうくらい好き。こんなの、ネズは嫌いだよね。でもさぁ、大好きだよ。なんていえばいいのかわかんないや、ごめんね。大好きだよ。ネズのことしか考えられないくらい、大好き。ずっと、ずっと好きだった。ううん、好き。どんなネズも好き。言葉にできない。泣いたら、嫌われると思うけど、でも、大好きだよ」
 留守電に入っていた嗚咽混じりの言葉に、おれは途方に暮れる。それは普段ニコニコした笑顔しか見せない彼女の痛切な叫びで、おれが求めていたものだったから。人間の感情とは、こんなに熱くて切ないものだったのか。そして驚く。剥き出しの感情をぶつけられて、嬉しくなってしまったことに。
 キラキラした瞳の奥にこんな熱情を持っていたなんて、知らなかった。
 会いたい、と初めて思った。
 実際にこの感情をぶつけられたいと思った。
 指先が素直に会いたいと彼女に話しかける。いまのおれなら何処にでも行けた。ディスプレイに揺れる会いたいの文字はいままでのどんなメッセージより重かった。程なくして彼女から会いに行きますと返事があった。いいや、おれが会いに行く番だ。最寄駅なら知っている。それを告げてさっさと着替える。
 キバナに吐いたことで気持ちが整理できた気がする。そういった意味ではあいつに感謝だ。
 そう、おれはたぶんいまから彼女を抱き締めに行くから。
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