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境目のない世界



 初めは一通のメッセージだった。無言で、血塗れになった腕の写真が送られてきた。おれはすぐ目を逸らした。だけどその無言の写真は言葉よりも饒舌に「助けて」を伝えていて、だから着替えもそこそこに彼女の家に駆けつけた。鍵のかかっていないドアをあけると血溜まりのなか女は啜り泣きをしていた。おれはとにかく真っ赤になったスマホと剃刀を取り上げて包帯を探す。手当がひと段落した頃、彼女はまだ泣いていた。辛い、苦しい、なにもできない。無力な彼女をそっと抱き締め、おれがいますよと言った。彼女は少しほっとしたようだった。
 剃刀だけではなかった。彼女の薬は常備5種類。その他、いろいろな病院で処方された睡眠薬と安定剤。死ぬには手のひらいっぱいよりたくさんの薬が必要らしく、必死に薬を貯めていた。そのくせいつもポーチにしのばせて糖衣をラムネみたいに齧ってる。その矛盾したところも可愛いなと思った。ただ死なれたら困るので、おれはこっそり薬を間引くのだった。彼女の睡眠薬はトイレに流すと水を青に染めて消えていった。
「あたしを捨てないで、お願い」
 いつの頃からか、彼女は俺に見捨てられることをひどく恐れるようになった。馬鹿だな、そんなことしませんよ。いくら言葉で伝えても彼女には伝わりきらない。おれに構ってほしくて腕を切って、おれに心配されたくて薬を飲みすぎて。「ごめんなさい、嫌いにならないで」そうした矛盾も可愛かった。彼女からは死と愛の匂いがした。
 自傷癖のある娘は抱き締めると安心した。抱き締めていると腕も切らないし薬も飲まない。おれの鼓動と彼女の鼓動がひとつになる。どろりと溶けあって、ひとつになる。ここは境目が消えてなくなる世界。おれの彼女を想う気持ちが流れ込んでそうしてようやく彼女は大人しくなるのだった。おれは腕のなかにある熱を愛しく思った。リストカットもODも、止められるのはおれだけだったから。得体の知れない恐怖と戦う彼女を、他に誰が守ってやれるだろうか。
「ネズと生きたい」
 その言葉に嘘はなくて、おれは嬉しくなってますます強く彼女を抱き締める。
「生きていきましょうね」
 そう、おれがなにもかもから守ってあげるから。

 ひとりでクリニックに行けるようになれた頃、彼女はようやく自然に笑うようになった。本を読めるようになって、話題が増えた。だからおれは彼女が欲しがるだけ本を買い与えた。いままでは詩集に剃刀を隠し持っていたのに、普通に読書ができるようになったのは大きな進歩だ。薬を噛みながら自殺した文豪の書をベッドで読む様子は儚くて胸が締め付けられるもので、やはりおれが守ってやらないとと思わせた。そう思わせるのがうまかったのかもしれない。いまとなってはわからないが。
 薬が減ったよと彼女は笑った。その日は手作りのオムライスがおれを待っていた。比較的よく眠れるようになったので、睡眠薬が減ったそうだ。よかったですねとおれは笑う。オムライスは見た目こそ悪かったが美味しかった。
 夜な夜などろりとひとつに溶け合うとき、彼女はおれに必死にしがみつく。どんなに薬が減っても、リストカットをやめても、それは変わらなかった。捨てないでとしがみついているようで、それはとても可愛かった。下手くそなオムライスも黴が生えそうな詩集も、おれという存在には勝てないのだと思わせた。おれがいるから彼女がいる。それは間違いのない事実だった。背中に残る爪痕が幸せの名残だった。
 常備薬が1種類になった頃、彼女は仕事ができるようになった。在宅でスキルを活かせる仕事を得た。そのためおれはノートパソコンと、タブレットを何種類か買い与えた。彼女はこんなにいらないよと困ったような顔をする。いいんだ、幸せの手伝いができるなら。こうすることで彼女の笑顔が増えるなら、容易いことだった。ありがとう、と彼女は微笑んだ。おれは幸せだった。
 ふと気がつくと、彼女はリストカットもODもしなくなっていた。ひとりで歩いて、ひとりで人生を行くようになっていた。境目がなかったはずのおれたちはふたりの人間になった。守られていたはずの彼女がいなくなったとき、おれは初めて自分の存在意義が分からなくなる。ネズとは、なんだ? 彼女を守るために生きてきたんじゃなかったのか? いまの彼女はどこへでもゆける。おれなしで歩ける。それはとても恐ろしい事実だった。
 夜毎、おれは彼女を求めた。境目がなくなるくらい激しく、金属が溶けあうように熱く。
「おれを捨てないで、お願いだから」
 どこへでもゆける女がいつまでここにいてくれるか分からないから、おれは必死に縋り付いた。ここにいて、どこへも逃げないで、おれだけを見ていて。抱いて、どうか愛して。守らせて。
 気がつくとおれは常備3種類の薬が必要になっていた。不安症のおれを優しく抱き締める彼女は言う「あたしがいるからね」おれはようやくほっとして、彼女の胸の中で眠るのだった。初めからこれを求めていたのかもしれない、いまとなっては分からないけれど。
 
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