「……寒いなあ」
ひやりと頬を襲う凍るような冷たい風につい言葉を漏らす。視線を下におろせば、小さくなった車が忙しなく行き交っている。ほう、とため息を吐いて緩みそうになる決心に鞭を打つ。櫻城雛子はここから飛び降りることを決意したんだ。今さら引き返すことはできない。と。何を怖がることがあるのか。下を見れば見るほど高鳴る心臓に嘲笑をする。こんな人生を生きていたって何もいいことがない。起こることは全てが悪のようにすら思える。いや、実際は悪なのかもしれない。
「それに、誰にも相談なんかできない。……話したくない」
思い出すだけでおぞましいあの出来事を、誰かに話すなんてこと、できっこない。私は一刻も早く忘れたいと願っているのに記憶が脳裏にこびりついて、はがれようとしない。鮮明に情景を思い出せてしまう自分が恨めしい。そんな私が嫌いで嫌いで大嫌いだから、こうして今、私は廃ビルの屋上に立っているというのに。
「怖くて、手が震える、なんて馬鹿みたい」
あと数歩踏み出せば、それだけで済む。たったそれだけのこと。頭で理解はできても心が納得してくれない。どうしてかは、わからない。まだ未練があるのだろうか。恋がしたかったとか、思わなくはないけどこんな汚い私じゃ相手にも申し訳ない。そうやって割り切ったはずだったのに。
がくがくと足が震えだして、動かない。進めない。自分でも笑えるくらいに心が怖がっていることを感じてしまってはもうどうすることもできない。誰かに手を差し伸べてもらうか、いっそ突き落としてもらうしかできない。きっと。
「(ああ、なんて馬鹿らしいんだろう)」
ギギギ、とゆっくり体をねじって屋上の柵に手をかけた。向こう側にいったん戻って心を落ち着かせよう。そう思った瞬間、私の足は空を切っていてぐらりと体が反対方向へ傾く。ひゅうと喉が鳴った。やけに大きく聞こえて、ああ、なんだ。やっぱり怖いんじゃないか、と実感する。今さら後悔をしたって遅い。きっとこうなる運命だったのだ。その運命に身を任せたのは他でもない自分であって、それに憤りを感じるのはとても理不尽な行動。どうせ捨てる命だったのだから、生きるも死ぬもどちらでもいい。もし生きていたとしたらそれは、とてもとても運がいいことで。
「いでっ!!!」
たぶん、きっと5、6秒程度の落下時間だったと思う。それでも私にはやけに長く感じて、目を閉じている分他の感覚が敏感になっていて、聞いたことのない音が聞こえたような、そんな気がする。……というより、私、生きている?
もしかしたらなんとかショックみたいな感じで魂だけ抜けてしまったという線もないわけではないけどたぶんそれは私の場合とは違うと思う。だって、私の下に温かい人の感触がするから。
おそるおそる目を開けてみると視界いっぱいに赤色が広がった。一瞬、自分の血かと錯覚したがあまりにも鮮やかすぎるとどこか冷静に突っ込む自分がいるわけで、その瞬間私は生きているんだと脳が理解をした。
「……あのさ、お前空から降ってこなかった?」
ついでに言えば、とてもとても素晴らしいタイミングでこの道を通りかかったこの人は私の自殺に巻き込まれたわけであって、もし骨を折ってたりするならばとても申し訳ないことをした、ということも同時に理解していた。