ミルクとはちみつ -2-
ここ早乙女学園は全寮制で、学生は2人で一年間の共同生活を送る。授業は遅くとも夕方に終わるし、それから自主レッスンに励んだところでトキヤの帰宅時間近くまで残る熱心な学生なんて、よっぽどの物好きでない限りいないだろう。本来、夕食を済ませて就寝するまでのこの時間は、ルームメイトと共有する筈なのだ――そう、トキヤが『トップアイドルのHAYATO』と同一人物でなければ。
その事実を音也が知ったのは、共同生活を始めたふたりが恋人になってから直ぐのことだ。トキヤとHAYATOの二重生活は予想を遥かに超えるハードさで、日を追うごとにトキヤのからだに精神的にも肉体的にも疲れが溜まっていっているのは音也の目から見ても明らかだった。一体何のバイトをしているのだろうと気にならない訳ではなかったが、どんなに疲れている日もぐっと奥歯を噛むように耐え決して弱音を吐かない恋人の姿に、いつか彼が自分から言ってくれるのを待とうと決めた。
蓄積された疲労でとうとう彼が倒れてしまった日も、音也は何も聞かずに必死で慣れない看病をした。帰宅直後に玄関先で倒れ込みそのまま高熱でうなされ続け、ようやく薬が効いてきた真夜中にようやく目をあけたトキヤの視界に入ったのは、ベッドの隣で自分の手を握ってうたた寝をしている音也の姿だった。彼の閉じた瞼を彩る睫毛はしっとりと涙で濡れており、トキヤは彼が本気で自分を心配してくれているのだと実感した。
自分のことを親身になって心配してくれる人がいる――その事実は、故郷を離れて久しいトキヤにとって懐かしい感覚だった。もちろん、自身のマネージャーや事務所のスタッフ、収録現場のスタッフが皆自分のことを気遣ってくれることは理解している。けれど聡明なトキヤは、『HAYATO』としての自分の商品価値がそうさせているということも十分すぎる程に理解していた。
そんな日々に慣れてしまっていたから、何の打算もなくただただ『トキヤ』のことを心配してくれる音也のこころが、とても嬉しかったのだ。身じろいだ自分の手をきゅっと握る、彼の大きな手の暖かさに、心底安心した。知らず滲んでいた涙で歪む視界に映る音也の寝顔に、掠れた声で「ありがとうございます」と礼を言ったのは無意識だった。彼は軽い寝息を立てていたから、きっと聴こえていないだろうけど。
とにかく、そんなことがあった翌朝、トキヤはHAYATOが自分であることを告白したのだ。こんなにも真っ直ぐに自分のことを見てくれる音也になら、自分の全てを知っていてほしい――純粋に、そう思ったから。
『私は双子ではありません。HAYATOという人物は、実在しません。彼は私が演じているキャラクターです』
熱でまだ頭がぼーっとしていたのだろう。心配そうに自分の額に手をあてて熱を計ろうとする音也への告白の言葉は、前置きも何もない唐突すぎるものだった。音也は、一瞬目を丸くして驚いた顔をしたものの、すぐにいつもの…いや、いつもよりずっと優しい笑顔でふわりと笑う。
『そっか、だから帰りが遅かったんだね。何にでも真剣なのはトキヤのいいところだけど、無理しちゃだめだよ』
そう言われて、額にあてていた手で頭を優しく撫でられて。ぽろりと一粒涙が零れ落ちた瞬間、トキヤは仕事とレッスンで疲弊しきっていた自分のこころがすうっと軽くなるのがわかった。
――音也なら、大丈夫。彼はどんな自分だって受け入れてくれる。
その確固たる安心感は、それからずっとトキヤにとって何物にも代え難い特別な支えとなっている。
改定履歴*
20111120 新規作成
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