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3.夢ならばここで終わらせて

『坊ちゃん、朝ですよ』
『んぅ……まだ、寝る』
『だめです、起きてください』
『ん――…』
『仕方ないご主人様ですねぇ。ちゃんと起きてくれたらご褒美差し上げますから、ね?』
『……ご褒美って何だ?』
『素直ですね、いいこいいこ。ご褒美は……キスとか如何でしょう』
『それ、ご褒美じゃない……いつもしてる』
『何度したって足りないのです。さぁ、目を開けて。紅茶が冷めてしまいますよ』

 僕の恋人兼執事が、やさしく名を呼んでくれる声が聴こえる。ふわふわした感覚に包まれた、ひどくあまったるい気分だ。なんだか、こんな気分は久し振りな気がする。

「坊ちゃん」

 紅茶の香りがふわりと漂い、最後にもう一度僕を呼ぶ声が聴こえて、僕は誘われるように瞼を開けた。目を開ければきっとそこには、紅茶片手にいつもの笑顔で僕が起きるのを待っている恋人がいると思って。

「――セバスチャン、紅茶……っ、ぁ」
「おはようございます、坊ちゃん」

 僕が執事の名を呼ぶ声にすこし驚いたように目を丸くした後、穏やかに笑いかけながら紅茶を手渡してくれるのは家令のタナカだった。あれから、……セバスチャンが居なくなってから、僕の身の回りの世話は全て彼に任せてある。




 セバスチャンは、あの日忽然と姿を消してしまった。夏が終わり秋を経て、英国の暗くて寒い冬に耐えてまた春を迎え、あの日と同じ夏の入り口になっても。僕をベッドの中で抱きしめてくれていた腕がだんだん透けてゆくあの感覚は忘れられない。

 何度名を呼んでも、消えてしまわないようにぎゅっと抱きついてみても止まってくれなくて、結局、すうっと、本当にはじめからそこにはだれも居なかったかのように消えてしまったのだ。

「少々、お顔の色が優れませんね。ゆっくり眠れましたか?」
「ん…大丈夫だ。それより今日の予定を聞かせてくれ」
「畏まりました。本日は――…」

 ベッドには、一枚の大きな鴉の羽が残されていた。セバスチャンの部屋は完璧すぎる程に綺麗に整頓されていて私物のひとつもなかったから、あいつの髪の色とおそろいの漆黒の綺麗なそれが、あいつが唯一残したものだ。

 何日経とうとも決して色褪せたりすることなく、今日もベッドのサイドテーブルの上、ガラスケースの中で朝の光を浴びて美しく光るそれを見るたびに、僕の胸は例えようのない喪失感でズキンと痛んだ。

「――以上です。それでは食堂でお待ちしております」
「タナカ」
「はい」
「…いや、世話を掛けてすまない。仕事量が増えて大変だろう、家令に加えて執事の仕事まで」
「いいえ、坊ちゃん。平気ですよ。お気遣いありがとうございます」

セバスチャンが居なくなってから数日は本当に何もする気にならず、からだ中の水分が全て涙になってしまったのかと思うくらいに、ただただ泣くことしかできなかった。

 曲がりなりにも伯爵でファントム社社長である僕が、使用人がひとり居なくなった程度で寝込むなんて――と、今ならそう思えるのだが、あのときはもうとにかく悲しくて、……彼に約束どおり魂を差し出せない自分を憎んだものだ。

 使用人たちは、そんな僕に対して優しすぎるほどに優しくしてくれた。こうやって生きている以上、伯爵として、社長としての責務を果たさなければいけないと僕が自分で思えるまで、文句も言わず下手に慰めようとすることもなく見守ってくれたし、今でもどこか本調子に戻りきれない僕をそっと見守ってくれているのがわかる。そんな周りの優しさがあったから、僕はなんとかいつもどおりの生活に戻れたんだ。

 ただ、今までとひとつ違うことと言えば、僕の屋敷には『執事』はいない。すぐに代役を立てることもできたけれど、どうしてもそんな気分にならなくて。だって、僕の『執事』はあいつだけだから。他なんていらないんだ。



****

 朝食の後、僕は執務室真下の薔薇園に足をむけた。ここに来るようになったのは、セバスチャンが倒れてからすぐのことだ。苦しそうにしているあいつに僕ができることは、この花を摘んで枕元に飾ることくらいだったから。それに、花を片手に寝室に向かうと、あいつは本当に嬉しそうに微笑んでくれたから。

 ……もう、花を摘んでも喜んでくれる恋人はどこにもいないのに。
 薔薇が花を咲かせる間中僕はこの習慣をやめられずにいた。なんとなく、こうやっていればいつかあいつにまた会えるような気がして。

 幾度もキスを交わしたベンチに座っていると、セバスチャンのことばかり考えてしまう。いつまでもこうしていていても何も変わらないのは解っているのに。今日だってたくさんの仕事が待っている、たしか今日は、新しい工場設立の見積もりが出ている筈――

「よし」

 ふるふると首を振って無理やり頭を仕事モードにして立ち上がり、庭師から借りた鋏で朝露を浴びて綻びかけた薔薇をひとつふたつ摘んで執務室に戻ろう…そう思った時だった。あの愛しい声が聴こえたのは。

『坊ちゃん』
「…………え、」

 慌てて振り返っても、当然というかなんというか、恋人の姿はどこにもなかった。セバスチャンのことばかり考えていたから、とうとう幻聴まで聴こえるようになってしまったのだろうか。

 自分はこんなに弱かっただろうか、伯爵なのだからもっとしっかりしなければ――そう自嘲しながら改めて薔薇を摘もうと鋏を握った手に力を入れる。棘で手を傷つけないようしっかり茎を見ないといけないのに、視界がぼやけてよく見えない。ぽたりと一粒手に涙が零れ落ち、僕はそれでようやく自分が泣いていることに気付いた。

 もうあいつはいないのだと、消えてしまったのだと頭で理解した筈なのに、こころが全然追いつかない。今だって目を瞑れば思い出せるんだ。あいつのあの長身も、整った顔も、僕を軽々と抱き上げてくれる腕も。僕の名を呼んでくれる、ひくくてあまい声だって――、


「坊ちゃん」


 もういちど、今度は、はっきりと聴こえた声。今の今まで頭の中で思い出していた声だった。

 でも、そんな、まさか。あいつはもう居ない筈だ。けれど、傍に居るだけでこんなに胸が苦しくなるような気配を持つのは、あいつしかいない。

 ざぁ、と音を立てて一際強い風が吹き抜け、満開の薔薇の花びらが舞う。鋏を握っていた手に大きな白い手袋をした手が添えられて、どくんと心臓が音を立てた。

 愛しい気配に震える手をそのままに、ゆっくり後ろを振り向けば、そこにいたのは一年前最後に見たときと少しも変わらない僕の恋人、だった。

「さぁ、鋏は危ないですよ。お貸しください、薔薇なら私が摘みましょう」
「………セバ、ス、チャン?」
「おや、坊ちゃん、すこし身長が伸びましたか?」
「あ、当たり前だろう、僕は成長期なんだぞ、いつまでも、」

 僕の手を包んで、そうっと鋏を取り上げて。大きな手はそれを地面に置くと、そのまま僕の頭を撫でる。手袋越しに感じる体温、間近で見る漆黒の燕尾服、僕を優しく見る笑顔、…セバスチャンを構成するひとつひとつの要素が、懐かしくて愛しくて胸が苦しい。

「……僕だって、いつまでもこどものままじゃない」
「はい。長い間勝手にお暇を頂いて申し訳ありません」
「セバ……」
「坊ちゃん、会いたかったです」
「――ぅ、ひっく、セバスチャ、セバスチャン」
「……大きくなっても、泣き虫なのは変わりませんね」
「だれのせいだ、ばか執事……」
「はい、私のせいですね」

 何かを考える余裕なんてなかった。ずっと焦がれてたまらなかった恋人が今目の前に居る。

 いつの間にか伸ばしていた両手の指先が燕尾服に触れて、僕の背中に手袋をした大きな手が回されて。そのままぎゅっと抱きしめられて感じるのは、ゆっくり大きく聴こえる鼓動と言葉で言い表せないくらいの嬉しさ、それから安心感だった。

「坊ちゃん、ただいま戻りました」
「……おかえり、セバスチャン」

 気のせいか、耳元で聴こえる低音がすこし震えていたような気がする。額にキスをされて、大きな手で頬を撫でられて。誘われるまま上を向けば、与えられるのは一年前とちっとも変わらないやさしい口付け。唇が触れた瞬間に、ぼろぼろと大粒の涙が頬を伝うのがわかった。人前で泣くなんて伯爵として失格だ……そうは思うけれど、止められそうにない。

――嗚呼、神でも誰でもいい。どうか、夢ならばここで終わらせて。






改定履歴*
20110712 新規作成
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