perfume -2-
あの時、セバスチャンのにおいにまじっていた、僕の知らない花の香り。
それが自分の気のせいであったならと、どれだけ祈ったか分からない。神などいないものだととうに悟ったはずなのに、みっともなく祈りを捧げた。
「ぅ、っく……」
何であんな命令をしてしまったのだろう。
何であの時、僕も一緒に行かなかったのだろう。
何で熱なんか出したんだ、喘息だってずっと発作はなかったのに、何で、何で、なんで――…
****
僕は泣きながらいつのまにか眠っていたらしく、目が醒めたら部屋はもう明るかった。
頭がずきずきと痛んで、起き上がる気力も沸いてこない。そしてその痛みが、昨日の出来事が現実のものだということを僕に告げていた。
『悪い夢だったのかもしれない』という勘違いもさせてもらえないなんて、本当に神は居ないんだな。もういっそ清々しくすらもある。
ああ、今は何時だろう。……僕は、セバスチャンがいないと時間すらもわからないのか。
「無様なものだな」
本当に無様だ。一体僕はいつのまにこんなに弱くなったんだろう。ただ一度の、しかも僕の望みを叶えるための駒の行動でこんなにも乱されてしまうなんて主人失格だ。
もういっそあいつにもらった言葉も恋人として一緒に過ごした時間も全て忘れて、あいつは僕の命令を聞く忠実な下僕だって割り切れればいいのに。そうしたらきっと、こんなに苦しい思いしなくて済むのに。そう、何もかも忘れて、ただの主人と執事の関係に戻って――……
『好きですよ、坊ちゃん』
どうして僕の脳は、持ち主の言うことを聞かないんだ。忘れられればいいと思った傍から、こんなにあまい毒のような記憶を呼び覚まして、こんなんじゃ忘れられるものも忘れられない。よりによってこんな、僕がいちばん好きなあいつの顔を思い出させるなんて。
「……セバスチャン」
ベッドに仰向けに寝転んだまま、呼びなれた名前を口にしてみても返事はなかった。
いつもなら隣に添い寝してくれている暖かな体温も、僕を抱きしめてくれる腕も。当たり前だ、あんなふうに拒絶して、下がれと命令したのだから。
でも、それでも考えてしまう。僕たちの関係が主人と執事でなければ、契約に縛られた関係でなければ、無理やりにでも傍に居てくれんだろうか。
こんなの、馬鹿げた考えだ。僕は人間であいつは悪魔。本来は出逢うはずのない存在で、契約がなければ一緒にいることも恋をすることもなかったのに。だからこんなの考えるだけ無駄なのに。
もう頭の中がいろんな感情でいっぱいになってしまって、前にも後ろにも進めない。つうっと涙が頬を伝うのを認めたくなくて、僕は腕で目を覆った。
「坊ちゃん」
ふわりと僕の耳に降ってくる、暖かい音。目を瞑っていても解る。だいすきな気配とだいすきな声。セバスチャンが来てくれたんだ。
嬉しいけれど、どうしていいかわからなくて僕は起き上がるどころか腕の一本も動かせずにいた。セバスチャンはそんな僕にゆっくりと、言葉をかけてくれる。
「坊ちゃん、泣かないでください」
「泣いてなんか……」
「今の私は、貴方の涙を拭って差し上げることもできないのです」
「な……に、僕をからかいにきたのか!」
思わず腕を除けてベッドの傍に立っている男を仰ぎ見る。悪魔のただ一度の行いなんかでここまで崩れてしまう僕を笑いにきたのだと思って、自分の目元が泣きすぎて真っ赤になっているだろうことも忘れてきつく睨んだ、筈だった。
「坊ちゃん、本当に、申し訳ありません」
「セバスチャン……?」
「私が軽率でした。解決を急ぐあまりに、触れることすら拒否されるくらいに貴方を傷つけてしまって――こんなに近くにいるのに、涙も拭って差し上げられない」
「……」
「こんなでは、執事はもちろん恋人も失格ですね」
でもそこにあったのは、予想とは全く違う、つらそうな執事の表情で……僕は、そこで初めて、傷ついているのは自分だけじゃないと気付けたんだ。セバスチャンはきっと、悪気があって行為に及んだ訳じゃない。主人である僕の命令をただ忠実に、守ったんだ。
恋人である前に主人と悪魔、契約印に縛られた関係なのだから、命令は最優先されるのが当然……そんなこと、初めからわかっていたはずなのに。
『下がれ』と言ってしまったとき、どんな気持ちだったんだろう。ああ僕は本当にこどもだ。一時の怒りに任せて恋人を拒絶して、相手の気持ちを考える余裕なんて欠片もなかった。こんな我侭で面倒なこどもに付き合いきれない、そう思われても仕方ないのに。
――それでも、きてくれた。僕のところへ。
『昨日は悪かった』『来てくれてありがとう』
ふたつの気持ちを伝えたいのに、うまく言葉になってくれなくて、僕はベッドの傍に立っているセバスチャンに手を伸ばすのが精一杯だった。
そうすれば、指先に触れる、恋人の手のひらのぬくもり。
手を伸ばせばこんなに近くにあった、僕の欲しかったもの。
「坊ちゃん……?」
「セバスチャ……ごめ、昨日は、言い過ぎた」
「――っ、そんな」
「下がれっていったのも、取り消す」
セバスチャンは、慌てて床に傅いて僕の手をきゅっと握り返して目線を合わせてくれたけれど、いつものように抱きしめてはくれなかった。
もしかしたらもう、だめなのかもしれない。『執事』ではいてくれても、『恋人』としての関係までには戻れないのかも。
だってそうだろう、命令に従っただけでこんな風に自分を拒絶する恋人なんて、嫌になられても仕方ない。悲しいけど、でも自業自得だ。僕はからだを起こして震える声で言葉を続けた。
「セバスチャン、もうこんな面倒くさいこどもはきらいになったか? やっぱり、女の方がよくなったか……? それならそう言ってくれていいんだ」
「坊ちゃん……坊ちゃん、私が好きなのは貴方だけ。悪魔として永く生きた時間の中でも、これからも、こんなに心を乱されるのは貴方だけです」
僕と目線を合わせたセバスチャンが、ゆっくり、ゆっくり言ってくれた言葉。その予想もしていなかった暖かさに、胸の奥のところがきゅっとなる。
僕はその衝動に任せて、そのまま恋人の首に手を回して抱きついた。
「それなら早く、ぎゅってしろ……」
「……ですが、私は」
「いい、僕は早く、いつものようにぎゅってされたい。そうして、僕のしらないにおいなんて、全部全部上書きしてしまいたい……」
一生懸命口に出した言葉に、迷っていたセバスチャンの腕が僕の背に回される。そのままぎゅうっときつく抱きしめられて、その心地よさに、ぽろぽろと涙が零れた。
「貴方が赦してくださるのなら、いくらでも抱きしめて差し上げます」
「そんなの……だって、おまえは僕のコイビトじゃないのか?」
「……そうでしたね」
恋人の顔にようやく戻った、やわらかな笑顔。表向きの笑顔とは違う、僕にだけみせてくれる心からのそれが嬉しくて、僕はセバスチャンの肩口に顔を埋めて、思い切って我侭を口にした。
「セバスチャン、すき、すきだ。だから、もう僕以外に触れるな。おまえは髪の毛一本だって僕のものだ」
「イエス、……いえ、わかりました、シエル」
「な、まえ……」
「これからも恋人で居させてくださるんでしょう?」
「――あたりまえだっ」
耳の傍で紡がれる言葉の暖かくてあまい響きと、背中に回された手とゆっくり髪を撫でてくれる手が僕の凍えていたこころを溶かしてくれる。そっとからだを抱きかかえられてベッドに寝かされる頃には、もうセバスチャンからは、僕のしらない花のにおいはしなかった。
改定履歴*
20110301 新規作成
20160531 少し修正
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