perfume -1-
『嗚呼、熱がこんなに…全ては明日に致しましょう』
いつもの執事としての笑顔でそう言うセバスチャンが熱を測る為に僕に触れる。
手袋越しでもわかるくらいにひんやりと冷たいその手の心地よさに誘われるように、僕は目を瞑った。そのまま、いくらもしないうちに寝付いてしまったらしい。
****
ひやりと額に冷たい感覚を感じて、熱に浮かされた意識が呼び戻される。ゆっくり瞼を開けてみれば、そこには予想通りセバスチャンの後ろ姿があった。いつもの手袋を外していたから、きっと僕の額に乗せていたタオルを取り替えにきたのだろう。
「セバスチャ……」
彼の名前を呼んだ自分の声がひどく小さく、そして掠れていることに驚いた。どうやら自分で思っているよりも、僕の体調は思わしくないらしい。
小さな物音にすら掻き消されてしまいそうなその声に振り向いたセバスチャンが見せた労るような笑顔が、それが気のせいではないことを教えてくれた。
「嗚呼坊ちゃん、申し訳ありません、起こしてしまいましたね」
「……紅茶のにおいがする」
「はい、念のためにとお持ちしておりました。召し上がれますか?」
頷くと、セバスチャンは紅茶を少なめにカップへと注いで、ろくに起き上がれずにいる僕を抱き起こし背中を支えてくれた。
カップを受け取って、その暖かな紅茶をこくりと飲み込む。
セバスチャンはそれを見て、少し安心したような表情で僕をまた寝かせてくれた。ふわふわの掛布があたたかくてほっとする。
「すこし元気が出たようで安心致しました」
「僕はどれくらい寝ていた?」
「3時間程でしょうか。よくおやすみでしたよ」
「そうか……」
「夜明けまではまだ時間があります。ごゆっくり、おやすみくださいませ」
上品な笑顔を浮かべて、セバスチャンは大きな手を僕へ差し伸べてきた。
僕の髪や頬をそっと撫でるその手つきは、どんな高価な調度品に触れるときよりもずっと優しいもので、僕はその大切にされているのが一瞬で解る優しい感覚が大好きだった。
だから、受け入れたんだ。胸の奥深くに燻っている思いには気付かないふりをして。
そうしているうちに、今度はキスが降ってきた。手のひらが触れた後を辿るように、ゆっくり、丁寧に。最後に顎に手を添えられて上を向かされて、紅茶色の瞳と視線が交わって。そのまま目を瞑れば、それはキスの合図だった。僕達はそうやって、毎夜肌を重ねる。
でも、今日は違った。
きゅっと目を瞑れば、僕の目からはぽろりと涙が零れ落ち、セバスチャンはキスより先にその雫を拭って慌てたように僕の名を呼ぶ。でも涙は止まらなくて、優しくされる度に胸に潜む違和感はどんどん大きくなってゆく。
「坊ちゃん……? どうされましたか?」
きっとどうにか宥めようとしたのだろう、頬を伝う涙を唇で拭おうとしたセバスチャンの顔がゆっくりと近づいてきたときだった。
「〜〜、さわるなッ」
思わず振り払ってしまった大好きな手、それが戸惑うように視界の端から消えてゆくのを、僕はスローモーションのように見ていた。
「――手袋」
「手袋、ですか?」
気を抜けば次々に溢れ出しそうな涙をぐっとこらえて、感情が昂ぶらないようできるだけ静かに、抑揚のない声で言葉を紡ぐ。
「セバスチャン、手袋が『汚れた』本当の理由を言ってみろ」
僕は今ほど、自分の性格をのろったことはない。気になったらどうしても真実を確かめたくて仕方の無いこの性格。
子供はゲームに貪欲とはいえ、プレイしないほうがいい大人のゲームだってあるのに。わかっていたのに、どうしても真実を知りたくて、僕はそのまま放っておくことができなかった。
「ああ……坊ちゃんがお気になさるようなことはありませんよ」
答えが返ってくるまでの時間は、ほんの一瞬だったのだろう。
ただ、恋人の顔も見れないくらい緊張してしまっていた僕には、とても長く感じた。
その沈黙を破って返ってきた答えは、僕を突き放すようなもので――僕はとうとう、感情を抑えることができなかった。
「っ、おまえはいつだってそうだ! 僕を子供扱いして、適当にかわして」
「何を仰っているのです、坊ちゃん。私は貴方のご命令通り、紋章の持ち主を調べてきたでしょう。あれはあの時に、誤って汚してしまったもの」
「悪魔らしく、手段を選ばす……か?」
「え」
いつも冷静沈着な執事の、ほんの少しの心の揺れ。気付きたくなかったのに、ずっと一緒にいる僕には、それが手に取るように分かってしまった。
「――朝、お前の手から、お前以外のにおいがした」
胸の奥の深いところが、ずきん、と痛む。聞きたくない、これ以上問い詰めても、きっといいことはない。セバスチャンは悪魔で執事で、僕の命令のためなら手段なんて選ばない。この嫌な予感は、99%当たっているのだろう。そんなこと解っているのに、……たった1%の希望を捨てきれなくて、核心に触れる質問をしてしまった。
「紋章院になんて、行っていないのだろう」
真実を知りたいなら、そう『命令』すれば済む話だ。
けれど僕は、セバスチャンの意思で本当のことを言ってほしかった。主人と執事ではなく、恋人同士の対等な関係で、本当のことを言ってほしかった。
でも、どれだけ待っても、セバスチャンは何も言ってくれない。
大好きな紅茶色の瞳が僕から逸らされた瞬間、僕が縋っていた1%の可能性すらも潰された気がした。
「何も、言えないのか」
「ッ、坊っちゃん、それは」
「いい。『嘘をつくな』と命令したのは僕だ。本当のことを言わないのは、悪魔の優しさなんだろう」
昨日までいたサーカスのテントとは比べ物にならないくらい、居心地のいい僕の部屋。
ふかふかのベッドもきれいなシーツも、セバスチャンが淹れてくれた紅茶も、僕を包むすべてがいつもと変わらず暖かい。ただ、僕の心だけがひんやりと、氷のように冷たかった。
「もう、疲れた」
「坊ちゃん」
「セバスチャン、命令だ。……下がれ」
今の声は、本当に僕の声なんだろうか。まるで今にも泣き出しそうな、脆弱な子供の声だ。
セバスチャンはしばらく迷ったように佇んでいたが、僕がずっと振り向かずにいると、とうとう諦めたかのようにいつもどおり恭しく一礼して僕の元を去った。
ぱたん、と閉まる扉の音が、ひどく寂しく部屋に響いた。
改定履歴*
20110228 新規作成
20160530 少し修正
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