その前の話「ばあすでぇ? ──って何ですか」
まだ墨が乾ききっていない紙を横に除けながら佐助が問う。
「生まれた日の事だ」
「…はぁ…」
「生誕日を毎年祝う事だ」
言い返しながら、筆は滑らかに動き続けている。
「……なんでまた」
訝しげに呟いた佐助に目も呉れず小十郎は溜息と共に答えた。
「Birthdayだからだ」
繰り言だ、と苦笑して佐助は室の隅に追いやられていた急須に手を伸ばした。
「で。俺にどうしろと」
「こちらが訊きたい」
僅かにだが声に怒気を含んで言う小十郎の視界の端で、佐助は何も答えず黙々と二人分の茶を淹れる。
ふぅ、と一息吐いた小十郎に湯呑みを差し出した。
「あ、どうぞ」
「貰おう」
冷めた茶に文句も言わず飲む小十郎に佐助は湯呑みの中を確かめるように見詰める。
「祝う意味がわかんないけどねぇ…」
「その日に一つ齢を重ねる慣わしだ」
「一年に二つ増えません?」
「年明けは数えないらしいが」
「はぁ…変な話…」
小十郎の手から空になった湯呑みを奪い取って盆に戻しながら、佐助も自分の湯呑みを一気に空にした。
「でも、わざわざ右目の旦那が教える訳だし?」
盆を部屋の隅に押し戻しながら、伺うような声で笑う。
「べったべたな甘え方とかしてればいいですかねぇ?」
一気に眉間のしわを深くする仏頂面を見ながら佐助は嘆息する。
「冗談だよ」
来た時から空いたままの上座を見て、どうでもいい事のように言った。
「無事に戻って来られたら、考えましょうかね」
どうやら、部屋の本当の主人は、道すがら部下に胴上げされてるらしい。
追えだの捕まえろだのと騒ぐ歓声に、言い返すような罵声とそれを消さんばかりの大合唱。
それがさっきから近付いては遠退きを繰り返している。
「…やっぱり、あと半時で戻らなかったら帰っていいですか」
今度は仏頂面は無愛想なままだった。