始まりのようなもの


──おかあさん

泣きながら震える声で呼ぶが、母親は現れない。きっともう、あの時には山を下っていたのだろう。
恐らくは貧しさの為に捨てられたのだ。では何故、兄でも妹でもなく自分だったのか。
それは。
視界の端で草が揺れて気配が動いた。

──おかあさん

思わず駆け寄って草を掻き分けて見た先には。
山のように大きな蜘蛛。裂けた口。幾つも光る炎のような目。歪に曲がり尖った足の、牙のような爪。
振り下ろされた先には白い、

「──!!」

息が。
一瞬詰まった。
外から鳥の鳴き声が聞こえる。隙間だらけの壁から光が差し込んでいた。

「…朝か…」

上体を起こし、一度小さく咳払いをして呼吸を整える。
立ち上がって伸びをして、大刀を背に掛けてから小屋の隅に坐っている女に小さく頭を下げた。
女は答えるように項垂れた頭を更に深く沈める。その膝の前には白く罅割れた頭蓋。
女の、成れの果て。
つまり今目の前にいる女は既にこの世のものでは無いのだけれど、その事に別段驚きもしない。
そういうものには慣れている。そしていつか自分もああなるのだろう。
誰にも気づかれず、誰の目に留まる事もなく消えて失くなる。
それを歓迎するわけではないけれど、それではと言って、看取って欲しい誰かがいるわけでもない。
他人の記憶は、朧にある母と兄妹と。

「…ナキメ」

考えながら小屋から出ると、入り口の外に雉子がいた。

「急げ、ナギ」

鳥の嘴から流暢な言葉が流れ出す。それに驚く事もなく雉子に向かって問い返した。

「急げって、何処に…」

雉子は何も答えずに空に飛び立ってしまった。
仕方なく、飛び去った方角へと足を向ける。
何処に向かっているのか知らされてもいないが、そこに不安は無い。
今、自分が生きていられるのはナキメのお陰で。親に捨てられた子供が一人きりで生きていける訳がなくて、それでも未だ生きているのは雉子のナキメがいたからだ。
人がいない山奥で、一人で生きていくにはどうすべきなのか、全てナキメに教わった。
だからナキメは親のようであり常に正しい。
ナキメが山を下りるなと言うなら山から出る事はしないし、殺生をするなと言われたら獣は殺さない。
人里に下りたらその晩に高熱が出たとか、血を流したらナキメが臭いで近寄れなくなったとか、理由は後から判然とする。
だから棲家を捨てろと言われても説明を求めなかった。
ただ言われた通りにナキメの後を附いて行く。

「此処が何処だとは思うけどな」

一人呟いた声は誰にも拾われなかった。
何処まで行くのだろうと、思わないでもないが。それでも向かう先から雉子の鳴き声がすれば、自然と足が進んでしまう。
もし今置いて行かれたら。
戻る道も進む道もわからない。
今さら、人との交わり方もわからない。
人が均した道は平坦で歩くのは楽だったけれど、まだ今みたいに山の中を歩く方が気が楽だ。
親に捨てられたあの時から、ずっと山で暮らしてきた。ずっと一人だったから、人の視線が怖い。
擦れ違いに見られているだけだとわかっているのに、やはり自分は人と違うのだろうかと考えてしまう。
自覚があるだけに余計気になってしまって。
幼い頃から、他人には見えないものが自分にだけ見えたり、聞こえない声が聞けたりした。だから親に捨てられたのだろうと思うと同時に、鳥が言葉を喋るなんて不思議にも動じないでいられた。
役に立つと思うけれど、他人から見たら捨てたくなるほど気味が悪い事なのかも知れなかった。だから。
人と違うから。仕方が無いのだと。
思っているのに。
考え込んでいると突然、鳥の羽音が大きく響いて枝が折れるような音がした。

「何だっ…!?」

音のした方向を振り向くが草木が繁っていて見通しが悪い。
遠くに獣の咆哮がして何か危険があるのだと知る。
喧騒に近付くべきかそれとも逃げるべきなのか悩んでいると、森の奥から甲高い鳥の鳴き声がした。
聞き覚えのある、けれど聞いた事がないような鳴き方。

「ナキメ!?」

慌てて鳴き声のした方に駆け寄ろうとしたが、直後に腹に響くような咆哮と、足許に伝わる地を揺らす震動。しかもその音が近付いて来ている気がする。

「…まさか…」

躊躇ったけれど、背中の大刀に手を伸ばして、待ち構えてみる。
木々の間から遠目に見えたものは熊か猪のようで、そして並のそれ等より大きく見えた。
その獣のようなものが物凄い勢いで突進して来る。木とか薙ぎ倒してこっちに来る。

「無理!」

それを避ける様に森を奥へと逃げ出した。後ろから音は迫ってくる。怖くて振り向いて距離を確かめる事すら出来ない。
必死に走っていると、視界の一点が明るかった。森が開けた場所だろうと思ったから、そこに飛び込む。暗い茂みの中にいるよりは相手の姿が確認できるだけ有利のはずだ。
予想通り、青空が視界いっぱいに飛び込んできた。逃げ場を確認しようとして、思わず足が止まる。
見下ろす先は深い崖。

「!」

物音はすぐ傍まで来ている。もう後戻りは出来ないだろう。
どうにでもなれと、剣を抜いて迫って来る物に向き直る。茂みから出て来た瞬間を狙って倒すしかない。そう思って茂みを睨んでいると、間近まで来て突然、近付いていた影が消え、音も消えた。
その理由は知っていた。
獣は諦めたのでは無い。
逃げられないと知っていて、確実に獲物を狩ろうと気配を消して相手の疲弊を待っているのだ。
今迄、何度同じ事をされてきたか。
住み慣れた山だったから。地の利は自分にあったから、なんとか逃げ延びてこれたようなもので。
こんな知らない場所で見知らぬ相手にどうしたら。

「…剣なんて使えないのに」

大刀を呉れたのは雉子だ。
使い方なんて教わってない。
急に、轟、と吼えて草陰から熊が飛び出した。
慌てて剣を向けるが、熊は此方を無視して前脚で空を掻いて暴れていた。

「何を…いてっ!?」

ぺち、と顔に何かがぶつかる。驚いて、跳ね返って地に落ちた物を見ると蜻蛉がいた。
それは直ぐに飛び立ち、熊の顔に纏いつくように飛ぶ。よく見れば熊の片目は潰れていた。
猛り狂った熊が振り回す腕の風圧に蜻蛉がくるりと飛ばされる。
咄嗟に、蜻蛉に食らいつこうとする熊の横腹に剣を刺していた。蜻蛉を庇ったって何の得も無いのに。
――むしろ損だった。払い除けようとする熊の爪をかわしたら崖に足を踏み外した。

「あ、っ!」

浮遊感に、何かに縋ろうとして、目に入った蜻蛉に手を伸ばす。手は届く事はなかったが、蜻蛉の後ろに泡を吹いた熊が見えた。
ああ、危ない。
自身が崖下に落ちようとしてるのに、蜻蛉の心配なんてしていた。
直後に、誰かに腕を掴まれた気がした。
確かめた訳じゃないから夢かもしれない。
そうだ、夢だ。
だってこんなに真っ暗なのは目を閉じているからだろう。
熊に追い掛けられて崖から落ちるなんて冗談じゃない。
きっと、眼が覚めたら。

「っぶし!」

くしゃみが出た。
起き上がって鼻を啜ると、蜻蛉がころりと腹の上に落ちる。

「…んぁ?」

なんだ此処は。
涼しいと思ったら、目の前に川が流れていた。
場所は河原らしいが何故此処にいるのか判らない。

「あ、無事だったー?」

何処からか声がして、探すと川から老人が歩いてきた。

「良かったね、ナギ」
「え」

笑って傍にしゃがんだ老人は若かった。髪の毛が白いから老人かと思ったが、顔だけ見れば自分より年下かも知れない。

「な、なんで」

どうして自分の名前を知ってるのかと問う前に、白髪頭の人間は、こっちおいでと言いながら蜻蛉を指の先に停まらせる。

「ほら、アキ」

あ。なんだ、蜻蛉のことか。紛らわしい名前だな。
自分の勘違いが照れ臭く思えて、紛らわせようと蜻蛉を睨むと、蜻蛉は空に飛んで行った。

「怪我は無い?」
「え?」
「立って。立てる?」

頭の中が整理されないまま言われて立つと、白髪は座ったまま見上げて笑った。

「よかった。此れ返すよ」

立ち上がって、大刀を渡されるがどうすればいいのか解らない。礼を言うのも変な気がして、とりあえず受け取ってから鞘に収めた。

「ちょっと借りた」

白髪の人間は肩を竦めて笑いながら、小さな袋を懐にしまった。

「アキー、行こー」

いつの間にか川岸の岩の周辺を飛んでいた蜻蛉を呼び、白髪は困ったように笑う。

「じゃぁ、おれは行くから。気をつけて」
「は? 何に…いや、此処何処」
「大丈夫だよ」

何が。
白髪はあっさりこっちの問いを無視して、川に沿って下流へと歩いて行った。
蜻蛉がその頭に停まっていて、赤い髪飾りみたいだった。
此処は何処で、今の人は誰で、何故自分は此処にいるのか。
結局、何一つ分かっていないのに。
茫然と立ち尽くしていると、羽音が近付いてきた。すぐ傍に降りて、聞き慣れた声が言う。

「奪われた」
「…何が?」

どうしてどいつも説明を省くんだ。
ナキメが何か言いたげに川岸の岩を見ている。岩は、よく見れば先の熊だった。
夢じゃなかったのか。じゃあ崖から落ちたのも現実か。
何故無傷なんだろうと考えて、ナキメを見た。助けてくれたんだろうか?
ナキメの視線の先では、熊が腹を引き裂かれ、血を流して川の中に赤い筋を作っていた。既に死んでいるようだ。

「…さっきの奴か?」

何を奪われたのか知らないが、悠長に川下へ向かって歩いて行ったから、追い掛ければ間に合うかも。

「次は彼奴より先に」

短く言ってナキメはさっさと飛び立ってしまった。
…さっきの奴は追わなくていいのか。しかも次があるのか。

色々疑問が増えただけだったが。
落ち着くように一度深呼吸をして、ナキメの後を追った。


後記:名前はカナで




2013/03/30 ( 0 )







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