ずっと居る男は無表情に立っていた。
その手には大きな布が握られている。男の目の前には鉄製の檻が置かれていて、檻の中にいる生き物は動かない。
「どうかなさいましたか?」
開けたままの扉から入って来た獣が問うと、問われた男は安堵したように息を吐いた。
「お前が拾って来たのか?」
「は?」
問い返す男の前の檻を見て、獣は男を半眼で睨んだ。
「何を拾ってるんですか」
「ええ? 俺かよ?」
「ぅん…?」
檻の中から寝惚けたような声が上がった。檻の前に居た二人の視線は声の主に注がれる。
檻の中に居たのは一人の少女だった。 上体を起こし、巻かれた金の髪は背中に流れ、先程まで閉じられていた青い目は、今は驚きに見開かれている。
一連の動きを見ていた男は黙ったまま、手に持っていた布を檻の上から被せた。
「って、ちょっとー!?」
布の下から少女が喚くが、男は構わず隣に佇んでいた獣に問う。
「じゃあ、誰が持ってきたんだ?」
「城の兵士が運び込んだのよッ」
男が声に振り返れば、檻の中にいたはずの少女が二人の前で仁王立ち、腰に手を当てて睨み上げていた。
「……あれっ?」
「どうやって出て来たんです?」
男がゆっくり驚いている間に、獣が溜め息を吐いて少女に訊ねた。
「…そ、そこから。」
怪訝な眼で睨まれて少々怯みながら、少女は布を捲って檻を指差す。
格子の一部が抜けていて、子供なら自由に出入りで出来そうな穴が開いていた。
「……自分から入っていたんですか?」
呆れた声で獣が言い、男はなるほどと呟いてから辺りを見回すように首を巡らせた。
「誰か、この変態捨てて来てくれ」
「変態じゃないわよ!」
「誰だってそう言うだろう」
男はまたもや少女に構わず、興味が失せたのか城の奥に戻ろうと踵を返した。
「何よ! そっちが命令したんでしょ!?」
引き止めるように少女は声を震わせながら叫んだ。怪訝な顔で振り向いた男に気づかず、握り締めた自分の拳を睨んでいる。
「生贄を寄越せって! だから私が来たのよ!」
「…グリフォン」
「いいえ」
男が呼ぶと、獣は否定の言葉だけを返した。
男は小さく頷いて、少女に振り返る。
「帰っていいぞ」
「ふぉっ?」
涙目の少女の横まで戻ると、男は檻の天蓋を指で軽く弾いた。
「生贄を要求した覚えは無い。帰れ」
言い終わると同時に、檻に掛けられた白い布が一瞬で黒く染まり、瞬きをする間に檻も布も跡形も無く消えていた。
「…!?」
少女は息を飲んで、思わず傍らにいた男の袖に縋りつく。
男は一度目を瞠ってから、少女の旋毛を見下ろして苦笑した。
「当人にしがみついてどうする」
「!」
赤面して慌てて腕を解くが、少女は黙ったままその場に立ち尽くしていた。
何かを考えるように俯いたまま動かない少女に男は首を傾げて問う。
「何だ? 逃げないのか? それとも死にたいのか?」
「変わった趣味ですね」
吐息と共に呟いた獣の言葉に男は喉で笑った。
「ひとのこと言えないか」
「魔王さま」
窘める声に、男は片手を挙げて謝意を示す。
黙って自分の爪先を睨んでいた少女は獣の声に顔を上げて、目を見開いた。
「まっっ…!?」
はっ、と何かに気づいた顔をして男は素早く両手で自分の耳を塞ぐ。
「魔王って!!!」
少女の絶叫に耳を塞げない獣は思わず身を低くして身構えた。
部屋中に反響した声が消えるのを待って、男は塞いだ手を下ろして苦笑する。
「何だと思ってたんだか」
「だって見た目は人じゃないの!!」
指を差して喚く少女に魔王と呼ばれた男は溜め息を吐いた。
「良いだろ、どんなだって」
「もっと化け物っぽいと思ってたのに!」
「…余計なお世話だよ」
うんざりした様子で呟き、魔王は少女に背を向けた。
「ちょっと何処行くのっ」
「貴女も帰ったら如何です。遠いのならお送りしますよ」
魔王を追おうとした少女の前に立ち塞がり獣が言う。丁寧な声とは違って、目には怒りのような強さがあった。
立ち竦む少女を睨んだまま獣は続ける。
「それとも、帰らない理由でも?」
「何? 本当に死にたがりか?」
足を止め振り返った魔王に、獣は少女から視線を外さずに答える。
「それだけならこんな所まで来る必要は無いでしょう」
側まで引き返して来た魔王に、獣は庇うように身を寄せた。
「身分のある…姫か何かでしょう。物怖じしない子供なんて」
「ああ…、…でもどうして姫なんかが来る?」
「それは、家出か、」
「へぇ、姫なのか」
魔王の問いに答える声を遮って、突然割って入ってきた別の声にその場にいた全員の視線が集中する。振り返れば、入り口に腰に剣を提げた男が立っていた。
「助けたら英雄になれるな」
一人にやにやと下卑た笑いを浮かべる男を一瞥して、獣は魔王に首を巡らせる。
「…と、云う魔王討伐の理由になるでしょう?」
「なるほど」
頷いて、魔王は茫然と立ち尽くしていた少女の背を押して男に呈する。
「ほら。返すから持って帰ってくれ」
「ちょっ…待ちなさいよっ勝手に決めないでよ!」
魔王の腕に縋り少女は喚いたが大人たちは構いはしない。魔王は煩わしそうに掴まれた腕を振り、二人を見ていた男は顎に手を当てて値踏みするような目をした。
「ああ、持って帰るとも。魔王の首と一緒にな」
「欲張ると碌な目に合わないぞ?」
諦めたように溜め息を吐く魔王に、男は笑って剣を抜く。一足飛びに魔王に近づきそのまま魔王に向かって剣を振り下ろした。
茫然と立ち尽くしていた少女の背を押して、魔王は少女を自分の隣から退けた。
少女の固まっていた足は動かず、躓いて床に膝をつく。
「魔…っ」
両手を床について振り返って見上げると将に男の剣が魔王の体を貫いていた。
「…っ」
「…なに…!?」
少女が悲鳴を上げる前に男が声を上げて、剣を引き抜こうとしたが剣は魔王の腹部に刺さったまま動かない。
「何って、魔王だよ」
刺さったままの剣に触れて魔王が応える。血が流れるどころか、魔王は薄らと笑みを浮かべていた。
「こんな物で死ぬと思うのか?」
腹から生えた箇所と、魔王が握っている箇所から剣が黒ずんでいく。
見る間に剣は黒く染まり、少量の黒い砂になり床に散らばった。
「…っ!?」
剣を放して後退ろうとした男の腕を捕まえ、魔王は笑う。
「魔王って言葉の意味、分かってるか?」
言って、魔王は片手でマントを翻し男を頭から包み込む。
一瞬、声のような呼吸の音がした後、何かが崩れ落ちる音がした。
「…なんで服も平気なんだろうな?」
剣が刺さっていた箇所を撫で、魔王は首を傾げる。
マントがはらりと落ちた時には男の姿は消えていた。
「きっと、皮膚なんですよ」
「…えー?」
獣と魔王は何事も無かったかのように話し続ける。
「さっきの男は!?」
少女が声を上げれば、きょとんとした顔で見返した。
「いないよ」
「何処に!?」
魔王が足下を指差す。
床には黒い砂のような物が固まって落ちていた。
「…え…」
「欲張るからそんな目に合う」
抑揚も無く言い放ち、魔王は少女に背を向けた。
「お前も帰れ。これ以上巻き込まれるのは御免だ」
今度は立ち止まらずに、灯りもない建物の奥に姿を消す。
「お送りします」
隣に立って、静かに獣が言った。
魔王の消えて行った城の奥を呆然と眺めていた少女は、獣に嘴で裾を引かれて無理矢理外に連れ出された。
城を出てしまえば中に引き返す気にもなれず、少女は黙って先を歩く獣の後についた。
城を振り返りながら歩き、木々に遮られ小さくなって見えなくなった頃、黙々と前を行く獣に声を掛けた。
「魔王はいつからあそこにいるの?」
億劫そうにゆっくりと振り返り、獣は低い声で答える。
「…覚えておりません」
「…そうは見えないけど、実は物凄い年寄りなの?」
「歳月を数えるのが面倒になったそうですよ」
溜め息混じりに言い、獣は少女が足を止めた事も気にかけない。
「…ずっと、あそこにいるの?」
少女が見えない城を振り返り呟くと、獣は何故か異様に平坦な声を出した。
「魔王ですから」
小走りに獣の傍まで駆け寄り、少女は獣の顔を覗き込む。
「一人で?」
「人間は一人ですね」
「誰か来てもさっきみたいな…命を狙われてばっかり?」
何か言いたそうに嘴を開いたが、間を置いて溜め息と一緒に答えた。
「あの方が選んだ事ですから」
はぁ、と大きく溜め息を吐いて、獣は足を止めた。
少女も思わず足を止めて、前を見る。
薄暗かった視界が開け、眼下には一本の小道とそれに沿う形で疎らに建つ木造の小屋、その遥か先に城壁が見える。
眩しさに目を瞬かせていた少女に、獣はふ、と笑ったような息を吐いた。
「さようなら姫君。貴女が王位を継いだ時は、兵を向けないで 下さると有り難いですね」
振り向いた時には隣にいたはずの獣の姿は消えていた。
窓から差し込む陽光で本を読んでいた魔王は、ふと気配を感じて顔を上げた。
間を置かず部屋の扉が開かれ、金髪の少女が姿を現す。
「一人じゃつまらないでしょ」
笑う少女に魔王は読んでいた本を閉じ、少女に向かって微笑んだ。
「帰れ」
後記:説明くさい