白鳥さんの初キス



 お、お話するだけなら、わざわざ接近する必要なんてないはずだわ。
 なのに、なんでこっちに来るの!?
 ねえなんでこっちに来るの!?

 心の声が荒ぶっていても、それが音として口から出ることはなく。
 カチンコチンに固まっているわたしの様子に気づいたのか、ふ、と小さく笑う気配。笑われたことに羞恥心が沸き起こる。
 彼は無言のまま、ゆっくりとした足取りでわたしに歩み寄り、目の前に立つ。真っ向から見据えられて、咄嗟に俯いて視線を外した。
 足下に見える靴の先。
 その脚がわたしから引く気配はなくて、冷や汗がじわりと背中を伝う。



 ……ど、ど、どうしよう。(滝汗)



 狭い個室に閉じ込められて、暗がりの中、男の人と2人きり。真性M女にとっては、あまりにも美味しすぎる展開に妄想が尽きないところ。
 でも、今のわたしはそれどころじゃなかったわ。エレベーターに閉じ込められた恐怖とはまた別の、違う種類の恐怖に襲われていたから、すっかり怯えてしまっていたの。

 だって、ビックリするじゃない?
 いきなり目の前に男の人が来て、しかも無言で立たれたら怖いじゃない? 何かされるんじゃないかって思っちゃうじゃない!?
 ましてやここはエレベーターの中。緊急停止している状態で、逃げることなんて絶対不可能。襲われたらひとたまりもないのよ!?

 今更わかったの。卑猥な下着を身に付けていることがバレたらどうしようとか、男の人にイケない事をされちゃう自分の姿とか、今まで妄想してきたことは、自分の身には起こらない事だろうって過信していたから出来たこと。だから、妄想するだけで楽しくなっていたの。
 でも、それが現実的に起こってしまったら話は別。怖くて怖くて仕方がない。小さく縮こまっているわたしに彼の手が伸びてきて、トン、と壁に片手をついて距離を詰めてきた。

 つい後退りしてしまって、壁に背中がくっつく。壁ドンなんて初めてされたけど、こんなに距離が近いものなの? 互いの息遣いさえ聞こえてきそうなほどの距離感だわ。
 逃げ場なんてないってわかっていても、この近すぎる距離に耐えられそうにない。壁ドンされた方とは逆側に体を向けて、わたしは彼から逃げようとしたの。
 でもその直前、目の前を遮る彼の腕。もう片方の手に塞がれて、結果的に彼の両腕に閉じ込められてしまったわ。

 完全に逃げ道を失って、もう成す術がない。
 目が合うのが怖くて俯いていたけれど、彼の視線はずっと、ずーっと頭上から感じていたわ。
 それはもう、ひしひしと。

「あんた、男慣れしてないの?」
「っえ……」
「さっきから、すげえ挙動不審だけど」

 バレてたわ。
 そうよね、さっきからわたし1人でアワアワして、みっともないわ。お兄さんがそう感じるのも仕方ないというもの。事実、本当に男慣れしていないんだから。

 でも、そこはね?

「こんな狭くて暗い場所に閉じ込められたら、女性なら怖がって当然だ」

 って、思えないかしら?
 紳士的な振る舞いとか、気遣いとかできないかしら?
 初対面も同然の異性に、「男慣れしてない」だなんて、デリカシーに欠ける発言だと思うわ。

「……すみません」

 とはいえ、面と向かって言えないわたし。

「男慣れしてないんだ。意外」
「……意外、ですか」
「あんた、モテるじゃん。色んな男に話しかけられてんの、社内で何度も目にするし」
「………」

 ……なんだか、すごく嫌な感じがするわ。

 だって彼の口調は、わたしが軽い女だと確信していたような言い方だったもの。「色んな男に」って言い回しが、すごくわざとらしい。正直、いい気分はしないわ。
 でも、怒りよりも恐怖の方が勝っていたわたしには、やっぱり何も言えなかったの。

「ねえ、顔上げてよ。美人で清楚な白鳥サン」
「……あ、あの」
「あんたの顔を間近で拝みたいんだけど?」

 え、やだこわい。

 どうしようどうしようどうしようどうしよう。
 顔を上げるべきなの?
 でも目を合わせるの、怖いわ。
 だって何されるかわからないもの!
 や、何かされると決まったわけじゃないけど、でも距離がすごく、すごく近いの。
 それにさっきからこの人、言い方がすごく攻撃的で、威圧感があって、怖い……。

「………っ、」

 でも、いつまでもこの状態なのも辛いわ。

 だから、ゆっくり顔を上げたの。
 目が合ったら、すぐに反らすつもりで。
 でも、わたしが顔を上げきったのと彼が顔を近づけてきたのは、ほぼ同時だった。

「んっ」

 視界全部が彼で染まる。
 ちゅ、と唇に柔らかいものが触れた。



 …………え、

 えっ

 ええええええええちょっとおおおおっ!?


mae表紙tugi

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