白鳥さんのピンチ


「え?」

 今まで感じたことのない横揺れに違和感を覚え、反射的に天井を見上げる。わたしと向かい側の位置に立っていた彼も、階数の表示盤を見上げていた。
 胸を掠めた嫌な予感は的中し、1階ホールから2階へと上昇し始めていたレフトは、突然その動きを止めてしまう。
 同時にエレベーター内の電気が消えて、停電灯が辺りを照らし始めた。

「……え、え? 何っ、」

 驚きで声がひっくり返ってしまう。緊急停止したエレベーターに閉じ込められた、というのは瞬時に理解できたの。
 でも、誰だってこんな事態になるなんて予想つかないじゃない? わたしもこんな経験は初めてよ。
 だからもう、頭の中は大パニック。
 停電灯がついているとはいえ、狭くて薄暗い箱の中に閉じ込められた、という恐怖は尋常じゃない。足下から崩れ落ちそうになるほどよ。

 そんなわたしとは逆に、彼は至って冷静そのもの。困惑した表情はすぐに真顔に戻り、操作盤のボタンをぽちぽちと押し始めたの。
 でも、何の反応もない。
 非常用ボタンを押しても、応答の声は聞こえない。
 これじゃ、非常用の意味が全くないわ。
 わたしは恐怖のあまり動けなくなってしまって、目を凝らしながら彼の姿を見つめるだけ。一方の彼は慌てる素振りもなければ、頭を抱えている様子もない。操作盤が使えないとわかるやいなや、今度は携帯を取り出して、外部と連絡を取り始めたの。
 息が詰まりそうになる程の静寂が支配する。
 電話相手の方とすぐ繋がったようで、彼は一瞬、安堵の表情を見せた。

「……あ、沢田部長。緒方です。あの、なんかエレベーターが急に止まって出られなくなったんですけど。東棟の1階エレベーターホールの方。これどうしたらいいですかね」

 その気怠そうな口調が、わたしの緊張を解いていく。だってこの人、ちっとも動揺していないんですもの。こういう時、やっぱり男の人の存在は頼りになるわね。精神的な意味合いでも。

 それとこのお兄さん、「沢田部長」って言ったわね。
 ということは、営業部署の方なのかしら。

「あー、マジすか。つか、操作盤も全然動かないんですけど。非常用ボタンも反応ないし……あ、じゃあそれでお願いします。業者ってどれぐらいで来るんですか」

 会話の内容から察するに、どうやら沢田部長が業者の方を手配してくれるみたいね。
 彼が淡々と話を進めてくれたお陰で、わたしも落ち着きを取り戻せた気がするわ。

「じゃあ何かあったら連絡……え? あ、いや俺だけじゃなくて、」

 そこでお兄さんはわたしの方に目を向けた。
 この薄暗さにも目が慣れて、彼の表情も顔の輪郭も、口の動きもはっきり見える。目が合った瞬間、心臓がぎくっと不自然に跳ねた。

「……や、もう1人います。違う部署の方です。……はい、じゃあ連絡待ってます。早めにお願いしますね」

 そこで通話は終わった。

「……あの、大丈夫なんですか……?」

 恐る恐る聞けば、彼も小さく頷いた。

「地震に気づいた?」
「え、地震?」
「うん、今。それで緊急停止したらしい。で、緊急停止した際にトラブルが起きたっぽい。どこか故障したのかも」

 そう言って、彼は薄暗い天井を見上げた。

「業者来るまで20分くらい掛かるって」
「そうですか……あの、急に落ちたりしませんよね……?」
「古いエレベーターじゃないし大丈夫だと思うけど。電磁ブレーキもあるし」
「電磁ブレーキ……?」
「エレベーターを停止させた時に、保持させる装置がちゃんとあんの。じゃないと点検する際に困るから。知らなかったの?」
「はい……そうなんですね……」

 素直に感心してしまった。だって知らなかったもの、そんな装置があるなんて。
 もしかして、誰もが知っていて当たり前の知識だったりするのかしら? 彼の口調はそんな風に聞こえたわ。

 よく考えればこのエレベーター、上昇し始めてからすぐに停止したはず。なら、万が一レフトが落ちたとしても、さほど大きな衝撃はなさそうね。
 1人で閉じ込められた訳でもないし、頼りになる男の人もいるし。過剰に不安がる必要はないのかもしれない。
 そう安堵して、新たな問題に直面した。


 そう……そうよ。
 この薄暗くて狭い空間で、男の人と2人きり、少なくとも20分は過ごさなきゃいけないことよ。


 ああ、どうしましょう。
 こういう場合はどうしたらいいの。

 チラリとお兄さんの様子を窺えば、扉に背を預けながら携帯をいじっている。当然、無言。わたしも床をにらみっこしながら立ち尽くしているような状態で、互いに口を開かないまま、静かに時間が過ぎていく。
 さすがに20分以上、このままの状態で過ごすのは気が重いわ。

 彼に話しかけるべきなのかしら。
 でも、なんて声を掛けたらいいの。

 男性と2人きりで話す機会なんて、今まで殆ど無かった気がする。わたしの周囲は常に男の人がいて、複数で会話することが大半だったから。どうしたらいいのか本当にわからないわ。
 だってわたし、男の人と話すのが苦手なのよ。
 話しかけられることは多いけれど、わたしから話しかけることはほとんど無い。相手の方から話題を振ってくれるから、わたしはその話を聞くだけでよかったの。でも、今は違う。

 お兄さんは相変わらず携帯に夢中で、わたしに話しかけようとする素振りはない。
 だから余計に、わたしからも声が掛けづらい。
 空気が重たくて、居心地が悪すぎるわ。
 乱れた心拍数が、相手に伝わってしまいそうなほどの緊張感。迷った末に、とりあえず彼の様子をもう一度観察してみることにしたの。

 薄暗くてもわかる。細身で、かなり身長が高い。鼻筋はすっと通っていて、ツーブロックにかきあげた前髪が、はらりと瞳に掛かっている。
 このヘアスタイル、有名な雑誌でよく見かけるわね。

 やや伏せた睫毛も長い。
 唇も薄くて、瞳も綺麗な切れ長。
 これはもしかして、かなり男前の部類に入るんじゃないかしら。
 脚も長いし、壁に寄り掛かっている姿が本当に様になっている。スーツがとても似合っているけれど、何を着ても似合いそうな雰囲気、

「あんたさ」

 突然話しかけられて、肩がビクッ! と跳ねた。
 え、まさかバレた?
 コッソリがっつり観察してたの、バレてたかしら!?

「あんた、白鳥亜衣だろ。MD課の」
「は……はい。わたしの事、知ってるんですか?」
「有名人だから」
「あ、そうですか……」

 会話終了。

 え、え……どう返せばよかったのかしら。
 せっかく話しかけてくれたのに、会話を膨らませる方法がわからなくて強制終了させてしまったわ。

 不甲斐ない結果に落ち込んだ直後、ぱちん、と聞き覚えのある音が聞こえた。
 それが携帯を閉じる音だと気づくのに時間は掛からなくて、そっと視線を向ければ、ポケットに携帯を仕舞っている彼の姿が目に映る。
 そして顔を上げたお兄さんと、ばっちり目が合ってしまった。

 心臓がどきっ、と大きく跳ねる。
 咄嗟に視線を反らした直後、彼の脚がゆっくりと、私に向かって近づいてきた。


 ………え、なんでこっちに来るの?


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