予想外の展開


「お疲れ様」

 研修が終わった後、水森が会議室から出てくるのを廊下で待つ。姿を見つけたと同時に声を掛ければ、振り向いた彼女は驚いた様子を見せた。
 それだって、表情筋に動きはほぼ無いが。

「キリタニさんも、お疲れ様です」
「うん。あのさ」
「はい」
「今、ちょっと話せる?」

 そう伝えれば、彼女ははたりと瞬きを落とした。

「今ですか?」
「いや、用事があるならいいんだけど」

 大した用件じゃない。
 例のファイルが気になっただけで。
 ……あと、少し話をしたかった。

「いえ、大丈夫です」
「ありがと。あー……どこで話そうかな
「聞かれたらまずいお話ですか?」
「いや。多分、それは大丈夫」
「では、1階のロビーで待ち合わせしませんか」

 彼女の提案に、俺も頷いた。

 清水課長の研修は17時から。つまり勤務外なわけで、給料は出ないが参加も自由となっている。セミナーならともかく、企業義務の一環として行われる研修が自由参加なのは珍しい。参加を見送った人も多い。
 こんな時間まで残っていた社員とて、用が済めば早々に帰り支度を始め、オフィスを後にしていく。営業時間外の社内に、人の姿はほとんど無い。急いでロビーへと足を運べば、その場にいたのは水森だけで、周囲には誰もいなかった。

「ごめん、誘っておいて待たせた」
「全然待ってないですよ。大丈夫です」

 顔を上げた水森はやっぱり無表情だ。でも不機嫌な様子ではないし、どこかほんわかとした雰囲気を放っている。ほとんど笑わないが無口というわけでもないし、むしろよく喋る方だと思う。
 誰に対しても敬語口調で、感情を露にする事も無い。いつも冷静だ。

「あの、話って」
「あ、うん」

 先を促されて、口を開く。

「研修の時にさ、手に持ってたファイル。付箋たくさん貼ってあったから気になって」
「……え」

 ふと、彼女の瞳に陰りが見えた。
 不安げな視線を向けられて、少し焦る。何かを警戒しているように見えた。触れて欲しくない事、だったんだろうか。

 水森以外にも、マーケ社員の姿はあった。けれど、あの場にファイルを持参していたのは水森だけだ。だから余計に気になった。あの付箋だらけのファイルは、彼女の努力の表れなんじゃないかと。
 けれど水森が嫌がるのであれば、それ以上迫る気は無かった。

「あ、ごめん。見せて欲しいとかじゃなくて。どういう使い方してるんだろうと思って」
「……使い方?」
「俺、付箋の使い方が下手で」

 咄嗟に話題を変えてみたけど、うまく功を成した様だ。彼女は興味津々といった感じで、俺の話を聞いている。

「便利なんだけど、すぐに剥がれ落ちるから苦手なんだ」
「あ、わかります。粘着力の低いタイプは面倒ですよね」
「粘着が高い低いとか、あるんだ」
「フィルムタイプの付箋なら、剥がれないです」

 そう言って、彼女は手提げバッグの中を漁り出した。取り出したのは、多種多様な付箋たち。スタンダードなカラー付箋の他にも、絵柄付きの物や和風素材まで揃っている。

「こんなにあるんだ」
「フィルムタイプは粘着力が高いし、透明で出来てます。下に書いた文字が透けるので、使い方によっては便利ですよ。他にもマグネットタイプもあります」
「へえ……」
「付箋も日々進化を遂げているんです」

 真面目に茶化されて、笑みが漏れる。

「水森って、なんか」
「?」
「文房具好きそう」
「好きですよ。可愛いものもたくさんありますし。使い方次第で仕事も捗ります。基本デスクワークだし、根詰めてると疲れてしまいますから。可愛い小物達に癒されてます」
「ああ、そういう使い道ね」

 女の子ならではの発想だ。
 男の俺ではそんな思考には至らない。

 彼女からは、他にも沢山の使い道を教えてもらった。カラー付箋紙を貼ったページには同色のマーカーを使う、など。
 正直、全て実践に結び付くかどうかは謎だけど、水森と話せるなら話題は何でもよかった。

 その時ふと、周囲が薄暗くなる。
 天井を見上げて、状況を理解した。

「そろそろ、帰らないとな」
「そうですね」

 19時を過ぎると、アジュールのエントランスは照明が落ちる。ロビーも必要最低限の光が漏れているだけだ。

「ごめん、こんな時間まで引き止めて」
「……あの」
「うん?」
「ごはん、食べに行きませんか」
「……え」

 ……まさか、彼女の方から誘われるとは思っていなかった。

 本音を言うと、俺も誘いたかった。でも昨日、例の店に行ったばかりだ。誘うにしても、数日空けてからにしようと思っていた。必死な様を見せるのが格好悪くて嫌だったから。

 だからこの展開は、想定外で。

「おなか、すきすぎて」
「………」
「倒れそうです」

 告げる語尾は弱々しい。
 先日、道で倒れかけていた彼女の姿が脳裏に浮かんで笑みが漏れた。小さく笑い声をたてれば、水森は恥ずかしそうに頭を垂れる。

「……もう忘れてください」
「いや、無理かな」

 あんな衝撃的な出会いは、この先きっと無いと思う。

「じゃあ行くか」
「え」
「ご飯。店、リストアップしてるって言ったじゃん」

 グルメアプリの履歴はまだ残ってるし、いくつかブックマーク済みだ。彼女好みの店が見つかればいいけれど。

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