野心家は悩む


 アジュールは「絵画」を扱う事業だ。
 『絵のある生活を提供する』ことを、経営理念として掲げている。

 営業の商材は多々あれど、絵画を扱う企業は少ない。何故なら絵画は、生活必需品ではないからだ。生活にゆとりをもたらすインテリアにはなり得ても、無くて困る物じゃない。更に絵画は高額でもあり、特異且つ難易度の高い商材でもある。
 だからこそ俺は、アジュールという会社に興味を持った。


『1時間で、100万円の絵画を売る』


 この一文だけで理解した。「絵画」という、俺にとっては全く未知の商材で営業を成功させる為には、生半可な覚悟では到底実現できない事を。
 それだけに、アジュールの職場は仕事意識の高い人間が集まっている組織だという事も。

 純粋に惹かれた。
 挑戦したくなった。
 他人と同じ道には興味がなかったし、乗り越えるべき壁が高ければ高いだけ、やりがいがある。乗り越えた時の達成感を味わいたかった。勿論、アジュールが稼げる職場だという事も、入社した理由のひとつでもあるが。

 高卒ですぐアジュールへ入社した俺は、営業のいろはなんて当然知らない。だから研修やセミナーには積極的に参加したし、営業のノウハウ本も読み尽くした。部署の先輩方に頼み込んで、営業についてのレクチャーも受けた。実際、話を聞くのと実践するとでは天と地の差があったけど、頭に叩き込んだ知識を現場で学べるのは、何よりも自分の身になった。

 入社して数ヵ月間は研修期間だ。実際の営業は、メンターとして配置された先輩と二人三脚で行う。高額商材となれば顧客がつかないことも多いし、契約を結ぶことができたとしても、今はまだ、俺自身の実績にはならない。それでも、知らない知識を得られるこの環境に充実していたし、数多い失敗談と僅かな成功談を惜しみなく教えてくれた先輩の存在は、精神的な面でもありがたかった。



 1人立ちしたのは、半年が過ぎた頃。
 勿論当時の成績なんて、目も当てられないくらいに酷い結果だった。
 当然だ。俺にはまだ、経験値が無さすぎる。
 でも、だからって妥協は許されない。俺は天才でもなければ出来の良い人間でもないから、普通の人の数倍、いや数十倍は努力しなければならなかった。
 1人で絵画を売ることに初めて成功した時、これまでの努力が全て報われた気がした。顧客の元に絵画を発送した時のあの感動は、いまだに忘れられない。

 この経験が、俺の心に火をつけた。

 もっと、成績を上げたい。
 その為にはどうしたらいい。
 そう考える度に、幾度とある研修に嫌気がさした。
 入社時の導入研修に続き、マネジメント研修、フォローアップ研修、外部講師の研修に講演会。それよりも外に出て営業がしたかった。
 基盤をしっかりと築く為に研修が大事だとは重々承知していたが、繰り返される教育制度が「新人の早期戦力化」を妨げているように感じてならなかったんだ。

 こんなことは会社の中ではなく、現場で学ぶべきことなんじゃないのか。

 社員がひしめく会議室の中。
 入社2年目以降も続く研修を受けながら、俺は小さく溜息をついた。

「……さん、キリタニさん」
「……!」

 聞き覚えのある声が背後から掛かる。
 途端に心臓が乱れ始めた。
 すぐに振り向きたい衝動を抑え込んで、静かに椅子を引く。
 俺の斜め後ろに、彼女がいた。

「水森も来てたんだ」
「はい。清水課長が講師なので」
「ああ、あの人ね」

 顔は彼女に傾けつつ、横目で視線を移す。グラスボードに映し出されたプロジェクターの映像を、マーカー片手に説明している男性。マーケティング部門統括マネージャーの清水課長だ。
 短大を卒業後、アジュールの営業社員として入社した清水課長は、僅か2年で歴代の新人NO.1の成績を残した。彼の成績を超えた社員は未だに無く、トップセールスマンとしての存在感は一際大きい。
 数年前に営業を離れ、マーケへ異動。
 課長へ昇進した今は、30歳だったか。

 正直、どういう人物なのかはわからない。
 話す機会がほぼないからだ。
 女性社員からの人気が高いだけではなく、部下からも厚い信頼を得ている人物だという事は、知っているが。

「マーケ、強制なの?」
「いえ、自由参加です。ですが、清水課長が講師を務めるのは珍しいので」

 確かに周りを見渡せば、水森の他にもマーケ社員が数名混じっている。

「営業は強制参加ですか?」
「いや、こっちも自由参加。でもほら、相手があの人だからさ」

 現場を離れた今でも、トップセールスマンとして名高い人物の講義だ。営業社員としては、是が非でも研修を受けたいところだろう。
 ……俺は正直迷ったが。
 先輩社員が研修を受け、下の者が出ないというのもどうなのかと思い直し、今に至る。
 参加しておいた方が得なことも、あるかもしれない。

「──ここまでの説明で質問がある奴は、挙手してくれ」

 清水課長の一言に、数人が手を挙げる。水森がそっと離れたところで、俺も椅子を直して元の位置へと戻った。
 小声での会話とはいえ、周りの迷惑になってはいけない。それに清水課長にも失礼だ。

 その時ふと、視界に入ったもの。
 水森の手に握られたファイルが気になった。

「……?」

 ただのファイル、ではない。
 おびただしい数のカラー付箋が貼られたそれらに、戦慄を覚えたのは一瞬のこと。

 ……なんだ、あれ。

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