初めて見た笑顔 「豊さん。こんばんは」 「あ、いらっしゃい。さやかちゃ……あれ?」 彼女の挨拶に振り向いた男性が一人。カウンターで出迎えてくれた店の主人は、予想していた人物像よりもずっと若い男の人だった。 そして彼の背後では、女の人が背を向けたまま事務作業をしている。 男性の薬指に光るのは、シンプルな指輪。 夫婦で経営している店のようだ。 この店の常連客でもある水森と彼らは、既に周知の仲らしい。名前で呼び合うほど親しいのだろう。 その主人は俺の姿を見るなり、目をぱちくりとさせた。 「大変だ。さやかちゃんが男を連れてきた」 「なんだと。まじか」 彼の一言に即反応した女の人が、くるんと体を半回転させて振り向いた。俺達を交互に見て、軽く口笛を鳴らす。 「しかも男前じゃん」 「私から誘いました」 「やるね、さやかちゃん」 「たまにはやる女です」 「そうそう。今の時代、女も積極的でないとね」 「同感です」 「……」 なんとなく入り込めない空気の中、女同士の淡々とした会話が続く。 「席、結構空いてるよ。どこでもいいよ」 「ありがとうございます。キリタニさん、どこがいいですか?」 「ああ、うん。どこでもいいけど」 「じゃあ、向こうにしましょう」 1人でさくさく決めていく水森に苦笑しながら、彼女の後をついていく。初めて出会った昨日と今日とでは、彼女の印象はだいぶ良い方向に変わってしまった。可愛い見た目とは裏腹に、かなり性格がサバサバしてる。変に媚びたりしないし、あっさりしていて付き合いやすい子だ。あくまでも俺の場合だが。 そして彼女が向かった先は、2人掛けの席。 そこは客が入って来ても、入口からでは俺達の姿が見えない、死角にあたる場所。 店内の配置を知り尽くしている水森だからこそわかる特等席に、俺達は座った。 「頼むもの決めようか。水森、何か先に、」 ぴんぽん。 俺が言い終わる前に、水森が店内の呼び出しチャイムを押した。メニュー板も見ずに。 「……」 何事かと固まった俺をよそに、例の女の人が、メモを片手に飛んでくる。 「はいはーい。ご注文はお決まりですか? なんて、さやかちゃんの場合、もう決まってるだろうけど」 「はい。チキンボロネーズ6つお願いします」 「はーい6つねー」 「……」 ……6つ? 「あと、チューハイです」 「りょうかーい。もう調理入ってるから待っててね〜」 颯爽と走り去る女性を見送ってから、俺は彼女に話しかけた。 「水森」 「はい」 「チキンボロネーズ、6つって」 「ここのチキンボロネーズが激うまなのです。是非キリタニさんにも食べて頂きたいのです」 「うん、それはいいんだけど」 「あ。キリタニさんの飲み物、注文忘れてました。何がいいですか」 「ウーロンで」 じゃない。違う。そうじゃなくて。 6つって何だ。 「計算おかしいだろ」 「おかしくないです」 「いやおかしい。今この場に、俺と水森しかいないだろ」 俺の主張にも、彼女は表情を変えない。 ……本当に笑わないな、この子。 「えっと。キリタニさんの分が1つで、私が5つです」 幻聴かと思った。 「……5つも食べるのか」 「8つは余裕です」 「……すごいな」 その小さい体のどこに、そんな量が入り切るほどの余裕があるのか。胃がブラックホールなのか。 「私の胃はきっとブラックホールなんです」 被った。 「できたよーん」 能天気な声が降ってきたと同時に、3つ分の皿が運ばれてきた。さすがに6つ同時に運ぶことはできないようで、後で追加で持ってきてくれるようだ。 テーブルの上に並べられたチキンボロネーズは、じゅわじゅわと熱い音を弾かせている。香ばしい匂いを漂わせて、空腹感を誘う。 「へえ。見た目からして美味そうだな」 「とっても美味しいです。キリタニさんもきっと気に入ります。お先にどうぞ」 「じゃあ、頂きます」 促されて、フォークで切り分けたそれを口へと運ぶ。サク、と歯応えのいい感触の後に、肉の旨味が酸味と共に広がっていく。 「あ、美味い」 「ですよね」 「ミートソースの酸味が効いていて、食欲進む味だな。外側がサクサクしてて、歯応えもいい」 「このサクサク感と、分厚いお肉のジューシー加減が楽しめるのも、絶賛する要素のひとつです」 「うん、わかる。本当に美味い。水森ほどじゃないけど、これなら俺も2皿はいけそう」 「私の分、ひとつあげますよ」 「いいの?」 「私はこの後、チーズスパゲティ3つ頼むので十分です」 「……」 ……3つも。 「はーいお待たせ〜。追加の3つ分置いとくよ〜」 「ありがとうございます。それと、ウーロン1つお願いします。あとでチースパ3つ頼む予定です」 「はーいその時はまた呼んでね〜」 既に慣れているといった感じで、彼女は厨房へと戻っていく。いや、実際慣れているんだろう。普段からこんなに暴食漢なのか。すげーな。 苦笑しつつ顔を上げたら、既にチキンボロネーズを一口摘んでいる水森の姿があった。 その表情はすっかり和らいでいる。昨日の、おにぎりとお茶で満腹感を得た時に見せた顔と同じ顔。あの時垣間見た幸せそうな表情と、今、目の前にある表情が一致する。 旨い料理に舌鼓を打つ彼女の口角が柔らかく緩んでいて、また新たな一面を発見した。 ……食べてる時は、笑うんだな。 まあどんなに不機嫌なヤツでも、美味しいもの食べてる時は笑顔だしな。そう思いつつ、その小さな笑顔が拝見出来た事に得した気分を味わう。 また、彼女を食事に誘いたい。 そう思いながら、二口目を口の中に放り込んだ。 トップページ |