特別扱いされると嬉しい 今日だけで何度、時間を確認したのか。 仕事の合間に腕時計を見て、手が空いていればスマホで確認する始末。周りから「落ち着きないな」と言われるくらいだから相当だ。自覚はしてる。 定時前にあらかた業務を終わらせて、スマホでグルメアプリを立ち上げる。現在地とキーワードを入力して、近場で評判の良い店をチェックしていく。 彼女とは知り合って1日、一緒に食事へ行くのも、当たり前だが今日が初めてだ。小洒落た店よりも親しみ慣れた通りにある店の方が、互いに気兼ねなく過ごせていいかと判断した。 そこまで考えて、指が止まる。 自嘲気味な笑みが漏れた。 「……笑えるな」 何がっついてんだ、自分でもそう思う。 昨日まで、平凡な毎日がつまらないとボヤいていたくせに。 それは久々に味わう、高揚感だった。 定時を迎えると同時にPCの電源を落とす。すぐさま鞄とコートを抱えて、飲みに誘われる前にオフィスを出た。 エレベーター前には既に人だかりが出来ていて、それらを無視して階段がある通路へ向かう。今は時間よりも、人気が少ない道を優先したかったからだ。 定時後のエレベーターは、人の目が多い。 誰かに呼び止められる可能性も高い。 挙げ句、長話に付き合わされて待ち合わせ時間に遅れる、なんて事になったら最悪だ。 それだけは絶対に避けなければならなかった。 トントンと、リズミカルに階段を降りていく。4階から一気に降りるのもなかなか大変なもので、徐々に息が上がってくる。 だが定時上がり、疲労の溜まった体に鞭打って階段を使う奴なんていない。途中で人とすれ違うことはなかった。 最後の段を下り、正面玄関に目を向ける。そこには既に彼女──水森の姿があった。 ショルダーバッグを肩に掛け、壁に背を向けてスマホをいじっている。待たせてしまったかと急いで駆け寄れば、俺の気配に気付いた彼女が顔を上げた。すぐさまポケットにスマホを仕舞い、お互いに向かい合う。 「キリタニさん。お疲れ様です」 「お疲れ様。待たせたみたいでごめん」 「ちょっとフライングしちゃいました」 「何分前から来てた?」 「17時の5分前くらいです」 「確かにフライングだ」 「楽しみで。テンションあげ過ぎました」 ……顔、無表情だけどな。 でも彼女の言葉が嘘じゃないのは、真っ直ぐに向けられた瞳と、波長の変わらない声音でわかる。 楽しみに、してくれてたんだ。 そんな一言に浮ついてしまう自分がいる。 「とりあえず、出ようか」 「そうですね」 エントランスを出れば、強い季節風が俺達の間を吹き付けた。春とはいえ、夕方の空気はまだ冷える。腕に抱えたままの上着を急いで羽織り、夕暮れに染まる歩道を、2人で並んで歩いていく。 俺が上着を着終えるまで、2人分の鞄を彼女がさりげなく持っていてくれていて、そういう気遣いがすぐ出来るところが女の子なんだな……と、改めて実感させられた。 周りを見渡しても同僚の姿はなくて安堵する。 声を掛けられて連れが増える、なんて面倒な展開だけは避けたかったからだ。 同時に、嫌だとも思った。 「あ、水森さん」 「水森でいいですよ」 「じゃあ、水森。どこか行きたい店ある? 一応、このあたりの店いくつかリストアップしてきたけど」 「そうなんですか。じゃあ、そのお店は今度行きませんか?」 「いいけど……」 ……今度。 今度、また一緒に行こうと思ってくれてるんだ。 そんなさりげない主張に胸がざわつく。 なんだこれ。中学生かよ。 今まで女に無関心だった自分の前に現れた、ちょっと気になる女の子。そんな存在が出来た事に、俺もテンションが上がっているのかもしれない。 「キリタニさんに、ご紹介したいお店があるんです」 「俺に?」 「私の行きつけのお店です」 「そうなんだ。このあたり?」 「はい。もう着きますよ」 そう言って彼女が紹介してくれたのは、会社から然程離れていない場所にあった。 狭い路地の奥に佇んでいる、こじんまりとした小さな店。古ぼけたランプと小さなキャンドルが、訪れる人を温かく出迎えてくれる。白く塗装された扉は、手作り製に見えた。 「あ、ここ知ってる」 「ほんとですか?」 「うん。入ったことは無いけど、外観の雰囲気が良さげだから、前から気になってたんだ」 そう。よく通る道だから覚えていた。 遠目からだと何の店なのかがわからなくて、いつも見かけるだけだったけど。 「普通の飲食店だけど、ご飯がとっても美味しいんです」 「へえ……」 「ちょっとお値段が高いけど。でも、本当にめちゃめちゃ美味しいのです。お勧めです。太鼓判押します」 「そんなに」 「そんなに、です。私、会社帰りはよく此処に来るんです」 1人で来る事が多いと、水森は言った。 友人や会社の人間と、一緒に立ち寄る事はないらしい。 「こんな素敵なお店は誰にも教えたくありません。私が全部独り占めします」 「軽く営業妨害だそれ。俺に教えてもいいの?」 「キリタニさんと一緒なら、楽しくご飯を食べられると思ったから」 そう言って、彼女は扉に手を伸ばした。 普通に会話をしているようでも、内心はずっと心が躍っている。どうにか平然を装うことで精一杯な俺は、少しばかり情けなくも感じるけれど。 でも、それは仕方ないとも思う。 それはそうだろう、自らが大絶賛するほどの店を、彼女は俺に紹介してくれたんだ。しかも、誰にも教えたくないと豪語する場所に、俺を連れてきてくれたんだ。こんな、まるで俺が特別みたいな扱いをされて、嬉しくないわけが無い。 ついニヤけそうになる表情を引き締めて、水森の後に続く。扉が開くと同時に、チリンと軽やかな鈴の音が鳴った。 トップページ |