好きなだけじゃ、うまくいかない


 ―――がっつく程の事じゃない、なんて。

 どの口が言うんだ、改めてそう思う。
 所詮、男の理性なんて豆腐のように脆い。



 少し。
 ほんの少しだけ、彼女に触れた。
 それだけだ。

 たったそれだけで、それまでの思考もプライドも理性も全部―――あっさりと崩れ落ちた。







「んっ……」


 ぽつりぽつり、雨の雫が小刻みに窓を打つ。
 テレビから漏れる、誰かと誰かの笑い声。
 それらの雑音も素通りする程に、彼女の甘い吐息だけを耳は器用に拾っていた。



 ほとんど勢い任せなキスだった。
 性急に追い詰めるような、それこそ余裕なんてまるで無い程の。噛み付くような、野生的な口付けに近い。
 まるで格好つかないし、優しさとはほど遠い。
 それでも水森は抵抗することなく受け入れてくれた。

 強引とも言えるキスに、それでも懸命に応えようとするその健気な姿に愛しさが募っていく。
 ふっくらと柔らかいその感触を直に味わって、飽きることなくその唇を堪能した。
 何度も角度を変えて繰り返されるそれに、彼女の息は徐々に乱れていく。

 唇を離せば、苦しげな吐息が漏れる。
 肩で息をしている彼女の腰に腕を回し、力任せに引き寄せた。
 その勢いに押されて、ぽすんと俺の胸板に倒れこんできた水森を腕の中に閉じ込める。もともと体が小さい水森は、すっぽりと俺の腕の中に収まってしまう。

 頭上に顔を埋めてキスを落とせば、照れくさそうにしながらも、彼女の表情は柔らかく緩んでいた。
 頬を紅潮させて、胸元に頬を擦り寄せてくる。
 その愛らしい仕草に、また理性が掻き乱される。

 本当に、意図的にやってるんじゃないかと思う。
 滅多に見せない笑顔を、今見せるなんて。


「……なんか」

「ん?」

「キリタニさんじゃないみたい、です」


 そう言って、小さく笑う。


「……もっと余裕のある奴だと思った?」

「はい。……って、断言したら失礼ですね」

「いや。あながち間違ってない。そういう風に見られたくて、必死だったから」

「……?」

「わからないなら、それでいい」


 その意味深な言葉の真意を探ろうと、水森は俺の顔を覗きこんできた。
 けれど結局、彼女のしようとした事は徒労に終わる。
 俺が先に動いたからだ。

 腕に抱いた細い腰を引く。
 水森の体がバランスを崩し、その勢いのままに、華奢な体をその場に押し倒した。
 薄茶に染められた艶やかな髪の束が、クリーム色のラグの上に無造作に散らばる。
 目を見張って俺を見上げてきた水森の上に覆い被さって、耳や頬に唇で触れた。

 くすぐったそうに身を捩らせた彼女が、俺に何かを伝えようと口を開きかけたけど、結局言葉は音にならず、この空間に虚しく掻き消される。
 発しようとした言葉まるごと、俺が唇を塞いだから。

 腕を動かした時、硬い固形物がぶつかった。
 緩く目を開けて目線だけ動かせば、見覚えのある真四角の機械物。テレビ用のリモコンだ。
 おもむろに手に取って、そのまま電源ボタンを消す。
 途端に周囲は静寂に包まれた。

 ぷつりと音の途絶えた室内では、互いの息遣いすら鮮明に耳に残る。
 啄ばむ様なキスのリップ音と、初めて聞いた彼女の甘ったるい吐息だけが艶かしく響いていた。






 いつか水森をこの腕に抱いたら、怖さも痛みも与えないぐらい限りなく優しくしよう。
 そんな理想のシチュエーションみたいなものは、ずっと頭に描いてた。

 けど実際はどうだ。
 何もかも自分本位のまま、強引に彼女に迫ってる自分がいる。理想の形とは全く違う。

 けれど一度鷹が外れた理性は、到底立て直せるものじゃない。
 やめようとか、もっと優しくしようとか、そんな思いやりの一欠けらも胸に抱けなかった。
 最低だと思っても、ただ純粋に彼女が欲しい気持ちだけが先走って、その欲情のままに今、彼女を無理やり組み敷いている。



 口付けたまま、腰に触れていた片腕をゆるりと動かす。
 身体のラインを辿るように這っていく手が、彼女が着ているシャツのボタンに手を掛けた。
 小さな体に緊張が走った瞬間を、触れ合った口先から感じ取る。
 その一瞬の隙すら、俺は好機とばかりに利用した。
 強張った体とは逆に無防備になった唇を舌でこじ開けて、侵入を図る。


「……っん」


 くぐもったような声すら甘い疼きになって、体に熱が篭る。
 戸惑いを帯びた舌を絡め取って、少し乱暴なまでに咥内を蹂躙する。そうすることで彼女の中にある理性も崩していくみたいに。
 シャツの中に手を滑らせれば、しっとりとした肌は少し、汗ばんでいた。

 しつこいくらいに施したキスは、彼女に熱を与えてしまっていたらしい。
 首元に顔を埋めれば、ほんのりと漂う甘やかな香りに脳が痺れて、滅茶苦茶にしてやりたい衝動に駆られる。
 そんな破壊衝動にも似た本能を抑え込んで、鎖骨に舌を這わせて白い肌に吸いつく。
 ぴくんと体を震わせた彼女が、そこでやっと抗議の声を上げた。


「っ、キリタニさん、待って」

「……なに」

「……シャワー浴びてない、から」

「浴びてないから、何」

「か、体洗いたい」

「いいよこのままで」

「……えっ、や……でもっ……」


 胸元に顔を寄せれば、一瞬だけ腰が浮いた。
 狙いすましたかのように、その隙をついて背中に手を滑らせる。
 辿りついた先にあるホックを外せば、彼女が息を呑む気配がした。

 締め付けを外したそれを両手でたくし上げれば、布で隠れていた部分が暴かれる。
 吸い寄せられるように、胸の項を口に含んだ。


「……あっ」


 小さく跳ねた身体と、彼女の甘い声が響く。
 ちらりと目線を移せば、口元を腕で押さえてこんでいる水森の姿があった。
 すっかり火照った顔は耳まで赤く染まっていて、瞳はぎゅっと硬く閉じられている。漏れそうになる声を必死に耐えているようだった。

 ……素直に声、出してくれればいいのに。

 そう思いながらも、押し寄せる快感の波を必死に堪えているその姿が初々しく見えて可愛かったから、そのままにして胸への愛撫を再開する。



 ―――その矢先。

 突然、スマホの着信音が鳴った。


「……!」


 一瞬、動きを止めてしまう。
 水森も驚いたように目をぱちりと開けた。

 それは俺の鞄の中から鳴り続けている。

 迷ったけれど、無視する事にした。
 今は彼女を優先したい。


「……っ、キリタニさん、」

「ん」

「電話、鳴って、ます」

「うん」

「出たほうが」

「いい」

「でも」

「出て欲しいの?」

「んっ、あ……!」


 単調だった舌の動きを変則的なものに変えれば、快感の質を変えた刺激を受けた彼女から一際、甲高い声が上がる。細い腰が弓なりに跳ねた。


「あ……や、だめ」

「俺、電話に出たほうがいい?」

「……っ」

「多分、家からだと思うけど」

「っ……ん」

「別に大した用件でもないと思うけど」

「……ぁ…、待っ……!」


 ストッキング越しに内股へと手を這わせれば、その意図を悟った彼女の口から制止の声が上がる。
 けれど明確な意思を持って動く手は彼女の言い分を聞き入れる様子はなく、徐々に上へと移動していく。

 電話はまだ、鳴り続けている。


「電話に出れば、俺帰るかもしれないけど」

「……あ」

「どうする?」

「………」

「水森に任せる」


 我ながら酷いとは思う。
 こんな思わせぶりな事を言って、彼女に選択を迫るなんて。

 ぴたりと動きを止めて、身を起こして彼女を見下ろす。
 戸惑いを帯びた瞳と視線が交差する中、電話の音が止んだ。
 切なそうに顔を歪めた彼女が、ぽすん、と俺の胸元に手を置く。少し、乱暴的に。


「意地悪です」

「ごめん」

「………、帰……らないで」

「………」

「まだ、帰んないで。ここにいて」

「……帰るわけないだろ」


 すっかり上気した頬は、触れれば酷く熱かった。
 身を屈めて、耳元に唇を寄せる。


「今日、泊めて」

「………」

「いい?」

「……はい」


 蕩けた表情のままに微笑まれると、本当にやばい。可愛すぎて、どうにかなりそうだった。

 けれど、さっきまでの身を焦がすような激情は今、もう俺の中にはなかった。

 狂おしいほどの欲はあっさりと鎮火して、別の感情が胸に押し寄せてくる。
 優しくしたいとか、幸せにしてあげたいとか、そんな温かな想いが心を満たしていく。
 帰らないで、そう素直に告げてくれた彼女の本音を聞いただけなのに。
 本当に参る。
 まるでこの子の手のひらの上で転がされてるみたいだ。

 もう一度体を起こして、彼女の手を掴んで引き寄せる。
 わ、と小さく声を上げた水森を起こしてから、また腕の中に閉じ込めた。
 さっきから俺のされるがままになっている彼女はやっぱり、抵抗する様子はなかった。


「こっち、移動する?」


 指し示したのは、すぐ横にある彼女のベッド。
 ロータイプのベッドは、俺と水森の膝下くらいの低さしかない。
 俺の胸に顔を埋めたまま、水森は頷いた。

 柔らかい毛布の上に、2人で寝転ぶ。
 横倒れのまま、至近距離で目が合った。
 冷静さを取り戻していた水森は、いつも通り感情を伴わない瞳を真っ直ぐ俺に向けている。
 頬に手を添えれば、目元が柔らかく細められた。


「背中、痛くないか?」


 ラグが敷いてあるとはいえ、ずっとフローリングの上に寝転がされていたんだ。 背中が痛んでいないか、今更ながら心配になった。


「大丈夫です」

「そっか。ごめんな」

「いえ」

「ちょっと、がっつき過ぎた」

「嫌じゃなかったから、平気です」

「怖くなかった?」

「萌えました」

「………」


 こんな時でもやっぱり安定の水森だった。

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